2007年8月10日金曜日

おしごと



バイトからの帰り道、JR新橋駅の日比谷口を出て小路に入りました。

大きなパラソルの下にはブラシ、手ぬぐい、ストッキング、
そして靴磨きの小さなおばあさんがちょこんと座っていました。

沢村ちづさん(86歳)。
この場所で靴を磨いてもうすぐ58年。
私が声をかけると、当然のようにそう答えてくれました。



58年、です。
私の年齢の三倍近く、
父が51歳だから父の人生よりも長く
ここで過ごしてきたのです。

朝7時5分にやってきて、夜7時を過ぎるまで。
働く時間は1日12時間。

ピシッとスーツを着こなしたビジネスパーソンが木製の靴台に足を乗せました。
沢村さんはさっと両手にブラシを持ってささっと靴をなでます。
ブラシとブラシがカチカチぶつかります。
力の加減を変えながら、仕上げにきゅきゅ。
靴はきれいに磨かれて、太陽の光を鈍く反射していました。


 「お父さんが死んで、それからからね。
  息子たちに食わしてやんなきゃならんしね。
  その子も昨年定年退職したわよ」


小さな手を口に当て、上品に、そして屈託なく笑しました。
目が優しくて私も思わず微笑んでしまうのです。

新橋はビジネス街。
長い間、多くの人々の靴を磨いてきたことでしょう。
沢村さんに磨かれた靴を履いて仕事場へ向かい、彼らはまた、
誰かと仕事をしながらつながっていく。
パラソルの外は気温30度、汗が滴ります。
それでも皆、汗を流して働き、家族を養う。
そして、お金を得ながら社会を作っていく。

靴を磨いて息子を育てるのはおそらくとても大変だったと思います。
そんなの想像もつかないけど、想像もつかないほどものすごいことの気がします。
でも、沢村さんは今日も誰かの靴を磨きながら優しく微笑んでいるはず。

家から持ってきたというバナナを手渡され一緒にほおばりました。
「あら、おいしいわね」
靴磨きの合間に食べる沢村さん、私よりも何倍もおいしく食べていたのだと思います。

2007年8月3日金曜日

『善き人のためのソナタ』


最近波乗りジョニーにはまってます。 アデオに行って知った!
もっと大きなカテゴリーで言うと、高級な豆腐にはまっています
外食するなら高級な豆腐(1丁150円くらい)を楽しんだほうがいい気がしてきました安!

とってもとっても感激してしまいました。
『善き人のソナタ』を見てきました。
http://www.yokihito.com/



~すとーりー~
東西ドイツ統一5年前(超すごい!この設定!)の東ドイツの物語です。当時の東ドイツには、シュタージと呼ばれる強大な監視システムを担う監視者がいました。監視、共産主義に背く人々の言論を押さえることなので、つまりそれは思想の監視だと思います。あるシュタージュはとある芸術家を監視しだします。国家のため、社会主義のために彼は当然のこととして芸術家の私生活を聞き続けます。しかし、盗聴器から聞こえる人間味にあふれた言葉、交わされる愛、美しいソナタ。
「この曲を本気で聴いたものは、悪人にはなれない」
次第に、シュタージュの内面に変化が現れだすのです。


~思ったこと~
まず、考えたのが、「自由」ということ。
自由とは「考えられる」「思想の自由」なのであって、
人はこれがないことには満足しえないのだろうと思いました。
それはこの作品の中にもいろんなキーワードとしてあらわれていると思います。

芸術、セックス、自殺、盗聴

東ドイツでは自殺者が増えすぎたためにその数を数えなくなり、
自殺者のことを「自己殺人者」と呼んだそうです。
自分で死を迎える能動性を否定されるのです。
それでも、自分の意思でできる【自殺】があるからこそ、思想を規制された多くの東ドイツの人々が自殺していったんですね。

ぞくっとします。

気になるのはセックス。
この映画には結構この場面が出てくるんですが、私はこれも芸術と並んでキーワードなきがしています。

それはパートナーに対する愛の表現であって、数字や定義されたものでない曖昧な人間らしさ。
(人間らしさって言葉って、曖昧でなんだか逃げみたい~まいっか~)
娼婦との無機質なセックス場面もあるのですが、両者はとても対比されていてその違いがくっきりしている。

辺見さんが「単独者」について語っていました。
人は共同体からはなれないことには主観的に考えることができなくなってしまうのだと。
単独者とは「自己」のことだと思います。
自分で考えることがないから大きいものに流される。
断固とした拒否をすることができない。
そうであってはいけないから、単独者でありなさい、と。

きっとこのシュタージは共同体内にいることに何の疑問ももたづに生きてきた。
国家のために生きることが自分の幸せだと信じてきた。
でも、芸術家と出会うことで初めて彼は「単独者」
になろうとした。
にゃ~~~~~~~ん泣けるねぇ・・・
なんだかどこにやられているのか曖昧だけど、私、こういうのにすっごく弱い~・・・



そしてもうひとつ、この「時代性」
パンフレットによると、この時代は今の今まで誰も言及できなかったくらいタブー視されていたものだそうです。
まるで「1984」でえがかれている管理社会。
ビックブラザーズ!!
本当にこんな時代があったのならば、
この時代は後世に伝えなければならないって思います。
管理する、管理されるということは、思想の弾圧、人間らしくあることの否定にまでつながるのだと語っていかなければならないんじゃないかな。


どこまで「リアル」を想像できるのか。
これも辺見さんの話からだけど、
たとえば「ダンサー・イン・ザ・ダーク」。
この映画には死刑執行のリアルさが事細かに描かれている。
人が死ぬとは、頚骨が折れることであり、汚いことであり、泣き叫ぶものであり、体を固定されるものであり、
こういう想像力のなさは世界のゆがみをつくってしまう。
ゆがみはいつの間にか広がって気がついたらもう取り返しがつかないところにきてしまう。
だから想像しなくちゃいけない、同時に歴史も学ばなくちゃならないんだろうな~


『1984』が好きな人には是非『善き人のためのソナタ』をおすすめ
だって舞台が1984年で絶対にかけてあるんだもん!(誰もパンフレットのなかでいってなかったから不安だけど・・・)