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2010年10月3日日曜日

職業は恋人

(2010年神島)
フォルツァ総曲輪でスティーヴン・ソダーバーグ監督の
「ガールフレンド・エクスペリエンス」と
「バブル」
を二本続けてみてきた。

どちらも結構好きだった。

時給18万円を稼ぐ高級娼婦「チェルシー」の話。自分の仕事を理解してくれる彼氏もいる。2008年のリーマンショックで不景気なNYが舞台。大統領選や経済の話が映画のスパイスみたいにきいている印象。チェルシーが「人格論」とかいうのを絶対的に信じているのもかわいい気がした。久しぶりにあんまり説明のないタッチの映画を見たと思う。こういう空気感の作品は結構好きで満足。

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娼婦の経験はないけれど、どういう気持ちがするものなのかというのは時々考える。
見る映画や読む本に結構出てくるからかもしれないけど。

一番に思い出したのは「ヨコハマメリー」だった。
真っ白のおしろいを塗ったお顔で横浜をうろうろしていたい娼婦。所謂パンパン。
立場はことなるチェルシーとメリーさんだけれど、
がちがちに化粧してきれいな洋服を着込んで素顔を見せないあたりや、向上心があって自分の生き方にまっすぐな感じが結構にている気がした。

セックスというのは結構個人的で、
自分の内側と深く関わってくるものの気がしている。
普段どんなにかっこつけていい女やいい男を装っている人でも、
服を脱いで、裸になって、抱き合うセックス中は
単に快楽を求めているためだったとしても、
深い愛を確かめ合うためだったとしても
自分の内側をさらけださないわけにはいかないように思う。
きれいに身ぐるみをはがされたとき、人はセックスに快楽を感じられるのではないかな。
もし、↑の話がだいたいあっていたと仮定したら、セックスを売る商売は、客に快楽を販売することで成立する。
娼婦は、相手の装いをはがしてあげるために頑張らないといけなくなってくる。
客には相性の合う人や合わない人っていろいろいるわけだから、セックス中に個人的になっては商売は成立しない。
そのために、娼婦は何重にも心に仮面をかぶらなければならないんだろうし、
それはかなりきついことで、我慢や苦痛の上に成り立っていることなんじゃないかな・・・。


ただし、いずれの作品もこの大変さだけで語りを終わらせないところがけっこう気に入っているところ。
二人とも仮面をはずすとどうなるのかっていうのが完全にはわからない。
↑の話の全否定みたいなことをいうけれど、もしかしたら全然仮面なんてかぶっていないのかもしれないし、娼婦であることを含めて、もうこのままでほんとうの彼女たちなのでは、とも感じさせる。
メリーさんは最後に化粧をとった顔が「ほんとうの彼女」を暗喩しているようで、私には仮面をかぶり直しているんじゃないかとも思える。
チェルシーも個人的に思いをよせた男に会って涙目になるシーンは、彼女のなかで微妙なかけひきがあって完全に素顔とも言えないきがしてしまう。

昨日読んだ村上春樹の「トニー滝谷」は、服を何枚も何枚も買い込んで、見事に洋服を着こなす女性を愛する男の話だったけど、
何枚も何枚も着こなして、身にまとっていくその生き方は、
すごくすがすがしくて、華やかな描かれ方をしていた印象だった。
人は着飾って化粧をして、かっこつけようとするけれど、
かっこつけたことそのものが人の「人格」や「そのひと」を表していることも有るのではないかと思うときが結構あったりする。

娼婦という職業は、自分本来の生き方と、自分への偽りの狭間でぐるぐるぐるぐるしながらやっとできるものなのかもしれないって思う。(※娼婦によってもちがうだろうけども)
完全に「どちらかである」といいきれることよりも、それは複雑で人間味があることのように感じる。


■映画を見て思い出した作品
「ちぐはぐな身体ーファッションって何」鷲田清一
「ラスト、コーション」
「ヨコハマメリー」
「トニー滝谷」村上春樹
「女と男のいる舗道」ゴダール
とかとか・・・
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■そのた

映画館では私ともう一人の女性客しかいなくて、
すきまくっている感じもすごくよかった。
結構贅沢な感じ。
彼女の存在は微少だけど私の映画の見方に影響を与えていて、ちょっとした緊張感があった。
というのも面白い体験だった。

2010年7月15日木曜日

入り江


(2010/05/海王丸パーク)
「ザ・コーヴ」いついて

おもったこと。

●作品のつくりについて、ざっくり
ストーリー性もあるし、監督のいいたいことが伝わってくる、という気がします。
登場人物にも感情移入できて、編集も手が込んでいると思う。
なかなつくりはプロ級
。お金かかっていそうかな。
感情的なシーンが多いようで、
だから一人称の小説を読んでいるような気分だった。
しらけて見ちゃった場合は面白いと思えないんだろうけど、でもうまく感情移入できれば面白いと感じると思う。

●取材について
・いろんな人に話を聞いているように感じた。
ただ、太地町に住む人や漁師さんへの取材はなかったように思う。
もし拒否されて取材できないにしても、その理由があればよりよかったと、自分は思うと思う。取材しようとしているシーンがひとつあるだけで違うかもしれない。
・個別になるけど、いるかの肉が鯨の肉として全国で売られているっていう話についてはなんのことかわからなかった。
どれくらい売れてるとか、うっている数とか量とかそういうのはちゃんと説明してほしいかも、と思った。
・もう一つ、あそこまでモザイクだらけなのは私は好きではない。
隠し撮りだからなんだろうけれど、うーん、
あきらかに隠し撮りでもないもの[ほんとうはかくしどりなのかな・・・[カメラに向かって話していたけど]もモザイクなのは何でなんだろう。
なにか意図があるのかな。
みえちゃうとよくないことがあるんだろうと思っていろいろ考えては見たんだけど。
モザイクをかけることで個人を匿名化して「日本人」として一般化したいんだろうか、とか
もうただつけることになれちゃったからだろうか、とか。
ワイドしょー・・・??モザイクかけることで悪者感は増幅する気がする。
・水銀の数値については、私は間違っているのかあっているのか、一人の力で判断できないから、一視聴者としてはなにも言えない。
全くないことをひねりだして作っているのだとしたらおかしいと思うけど、そこはちゃんと確かめないと。確かめてない私には何も言えない。

●いるかの肉を食べてはいけないことについて
いるかを殺してはいけない理由には頭の良さがあげられていたように思う。
頭の良さと自己認識能力だったか。
うーん、日本に25年いきた私には全然共感できないなぁ。
きっと日本人も「「●●人」にはみんな自己認識能力があるし賢いほ乳類なんだ。だから殺してはいけない」、とかっていわれたら「そうだ」となるんだろうし、そこにあきらかな根拠なんて示されていないんだから同じと言えば同じかもしれない。
ずっとずっとこの作品を見ながら考えていたのは新潮社の「考える人」の今月号の村上春樹ロングインタビュー。

村上「善とか悪とかいうのは絶対的な観念ではなくて、あくまで相対的な観念であって場合によってはがらりと入れ替わることもある。だから、何が善で何があくかということは、今われわれに何かを『強制している』もの、それが善的なものか悪的なものかを、個々の人間が個々の場面で見定めていかざるをえない。それは作業としてすごく孤独できついことですよね・・・。システムはそれがどのようなシステムであれ、個々の人間が個々に決断をくだすことを、ほとんどの場合認めないということです・・・。(クローズドサーキット=閉ざされたシステムでは)人は方向感覚を奪われ、強制する力が善であるか悪であるかということすら判断できない状況においこまれます」

何が善で何が悪なのか、というのはおおかたの場合、私が今生きているシステムの中でおのずと決められているのかもしれない。
「私」がシステムなしには語れないとしたなら、もしもシステムの一つでしかなかったなら、
私なんていないことになってしまうけど。
まぁ、それは置いておいて、「私」なりの答えを見つけたいと思ったら、やっぱりどちらかを拒否するのではなく、どちらをも聞いてみる姿勢が必要なんだろうと、思う。
春樹はふたつの「クローズドサーキット」=「閉ざされたシステム」であっても、お互いに移動することができる、声を聞くことができるっていう希望や望みみたいなものをやっぱり1Q84でも、海辺のカフカでも世界の終わりでも・・・いっているように私は思うんだけれど、私も春樹のいっているであろうことを信じたい。
そしたら、そしたらこのいるか漁に対する回答は私のなかで生まれてくる。
私の意見をだれかに伝えたいと思えば、それを映画を作った彼らのように伝えないといけないと思うし、同時に私とは違う意見の相手の声を聞く姿勢をもつべきだとも思う。


●ドキュメンタリーについて
「ドキュメンタリーは真実を写す、なんていうのはぜったいない」というようなことを
大学1年の時に森達也さんがいっていたのをきいて、マスメディアへの道にすすみたいと思ったんじゃないかな、と今思う。

ドキュメンタリーは嘘をつく。
どんなドキュメンタリー作品にも監督の意志やメッセージがきっとある。
事実を曲げることはねつ造だろうから、それは絶対にいけないけれど、
演出であれば、いまのところそれは許されている。のを、毎日テレビやマスコミの報道を見て気がつかされる。
ただ、メディアや報じることのできる人間は、報じる場所をもっているわけで、それは人を簡単に傷つける武器にもなるということをちゃんと感じていないといけないともおもう。
公正な取材は無理だと思う。でも公正な取材を目指さないといけないんだろうな。
自分が絶対に公平で公正な取材をすることがきないという認識からそれははじまると思う。

2010年3月22日月曜日

ハート・ロッカー


ハート・ロッカー

戦闘中、どうしても動けないときにはえが目のあたりでうろついていたり、口に入っちゃったり
毎日の戦闘の中、もう明日なんてないかもしれないというときに出てくる言葉が「息子がほしい」だったり、
気に入らない味方を殺そうとしたり、
というような点、場面が印象的。

カメラの目線も爆弾の爆発で地面がうなるとか、描写がとても細やかやなぁと思う。

たぶん、こういう細かいところが私の知らない戦争のひとつであり、
知りたい「リアル」なんだろうと思います。
うん、秀作だな~よくできてるな~
と感想を持ちました。

でも、そんなに好きにはなれないかな。

私の趣味はやっぱり「戦場でワルツを」のほうだろうなぁ。

2010年2月21日日曜日

バベル

映画「バベル」がとってもおもしろくて、
最初はBGM代わりに家で流していたのに、
ついつい見入ってしまった。

(ホーチミン 2010年1月まんなか)

家族、親戚、友達・・・のみならず
会ったことがない人、
住んでる場所が違う人、
地球の反対側の行ったことがないような国の人にまで
何かしら私のとった小さな行動、行為、もしくは私の存在自体が、
誰かと関わっていて、
時には誰かの人生や寿命にまで関係している。

それでも、
そんなことには全く気がつかず、
私はたったひとりぼっちだとか
すごく孤独だとか
誰も自分を必要としてなくて悲しいとか
と涙を流したり、寂しく思ったりもしている。

ぬくもり、がほしくて
手を触りたくて
心細い、と感じている。

そういうシーンがとても印象的で、
なんだか切なくなります。
私にとっては
作品を見終わってから、バベルのことを考えていて、ふと涙が出そうになる、
という作品だった。

耳の聞こえないちえこが、クラブハウスに行って、
ライトの光で音楽を視覚だけで感じるシーンが、
楽しそうに踊っている人を見て、友達が誰かとキスしているのを見て、
ひどく孤独感を感じるシーンがとても印象的。

2008年11月18日火曜日

毛ぼうし

↑私のお気に入り、雲の長さを測る男 (2008年8月金沢21世紀美術館)


突然もやもやとかきたくなってしまったので、久しぶりにブログをつづります。


でも、特に今すごくかきたいことはないから、
ただ、だらだら文字をつないでみたかっただけだから、
あと、いますっごい眠いから、
けど、ちょっとでいいからかきたいから、

「OH FUJIOさん」の「毛ぼうし」を下にアップします。

私もふじおさんに会ってみたいなぁ。
たぶん、私をたんなる私として受け入れてくれる気がする。
地位とか階級とか学生だとかあんまり関係なく。
海辺のカフカの中でネコさんと石さんと話をするナカタさんみたいに。


YouTube - 岩井俊二 / 毛ぼうし(ニットキャップマン) Moonriders


岩井俊二といえば、庵野監督のイワイシュンジ出演「式日」と言う映画はエヴァみたいだった。
庵野監督作品って感じだった。
でも表現が直接的すぎてわたし怖かった・・・。(あ、ラスト3行はまたもやたっぷり独り言だわ・・・)

2008年7月18日金曜日

他人って鏡みたい





可愛い女の子のお話は好きです。
正直な女の子のお話も好きです。
私は男の子になったみたいにドキドキします。

「My Blue Berry Nights」 という映画を見ました。
いわゆる恋愛モノとか青春モノみたいな作品(映画も小説も漫画もアニメも)が苦手で
全く期待していなかったんですが、
結構、私好きみたいでした。
どきどきしました。


この作品の言葉から、確かこんな感じの一言。

「他人って鏡みたい。
みんな誰かを見ながら自分を見てる。」

すきです。不覚にも・・・。
こういう女の子。


http://jp.youtube.com/watch?v=qE7kHvBnXss
(よくみたらやっぱりフランス・香港映画だった。)

2008年7月14日月曜日

クライマーズ・ハイ

映画『クライマーズ・ハイ』を見ました。

(1985年8月12日 御巣鷹山に日光航空機墜落。その事件を追いかける新聞記者たちのお話。)(これは朝日新聞)
(これはNHKのドラマ映像かな・・・)


本を読んだこともないし、ドラマも見てなかったけど、
なかなか迫力満点でした。
俳優もみんな上手でした。

まず、○○通信のぴーこがあまりにも今と同じでまずビックリしました。笑
事件後の編集局も、きっとあんなふうに大騒ぎだったんだと思うし、
あと、過労で倒れる場面なんかも、
「新聞社」の再現が忠実でなかなか抜けてません。



とても好きな記者に
「どんなに短くても、小さな記事でも、この情報のためにある強い思い。
それが新聞を支えているからね。」
と言われたことを思い出しました。
彼の声は太く、低く、そして語っていました。
この言葉は私にとってとても重いものでした。
思い出すと、記者になりたい私としては、
たまらなくなりました。

文字一つ、情景一つとっても、その一文をかくための労力の大きさ。
情報に対する責任。
伝えたいって言う思い。

特に、佐山さんの書き直しの文章は本当にぐっとなる。


個人的に、心に残りました。
私が伝えられるものってなんだろう。
課題です。

2008年6月22日日曜日

オハイエ

(2007年金沢21世紀美術館)
ときどき、いや、いつもかもしれない。
私は結構、人との間に壁を作ってしまいます。
コミュニケーションをとろうとしても、
なかなか自分を表現できなくて、
ぎこちなくその関係を終わらせてしまいます。
壁って言うのはステイタスとか、性別とか、学年とか、初対面であるとか、
いろんな種類があるでしょうけれど、
でも、多かれ少なかれ、壁の存在が私を辛くさせます。
だから、こうやってブログをつづるのも、
コミュニケーションをとりたいがための
一種の自己表現なんだろうと、
認識しています。




今日、映画「オハイエ とっておきの映画祭」を見てきました。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~totteoki/ohaie.htm
仙台市では、障害のある人とない人一緒に音楽を通して楽しもう!
という
バリアフリーな「とっておきの音楽祭」が毎年開かれているそうです。
(とっておきの音楽祭
HPhttp://www5b.biglobe.ne.jp/~totteoki/)
その特徴は、なんといっても街の人みんなで運営するところにあります。
400人あまりのスタッフはみんなボランティア。
ステージは物理的なバリアのないストリート。
買い物してる人、散歩してる人、ピクニックしてる人、
オーディエンスもいつの間にか音楽祭に巻き込まれてしまうのです。


脳性マヒのluluという男の子が途中出てきます。
彼はこの音楽祭に第1回目の8年前から参加しているそうです。
映像の中でジャンプまでしていたluluくんだけど、
監督が初めて彼に会ったとき、彼は話すことも、立つこともできなかったそうです。
でも、
「シンガーだからたって歌いたい。」
と、
歌を歌いながら、お客さんの反応を感じながら、今ではジャンプするまでになったluluクン。


映画の中で、
「うまい、ヘタは関係ないんだ。歌えることなんだ」
というナレーションがあります。
私はいつもうまくコミュニケーションをとろうと、誰かとの間に壁を立ててしまうけれど、
触れ合いたいんだ、 共有したいんだ、 と
どんなにへたであっても表現することが、
バリアをぶちこわしていることに、気がついていきます。

ボランティアスタッフが、
「だって楽しいから、毎年参加してるんです」
といっていました。
みんなバリアがないのが楽しいから、
街中が活気付いているんだと思います。

来年はこのお祭りのスタッフしたいと思います。

2008年6月20日金曜日

権威


最近、「es」という映画を見てから、「服従」に興味を持って、考えていました。
(esのHP http://www.gaga.ne.jp/es/)

この作品は1971年におこなわれたある実験を再現するような形で撮られた作品です。
実験って言うのは・・・・

1971年、スタンフォード大学心理学部で、ある実験が試みられた。被験者は新聞広告によって集められた24名。彼らは、無作為に「看守役」と「囚人役」 に分けられ、監視カメラ付きの模擬刑務所に収容された。二週間、いくつかのルールに従いながら自分の役を演じること、それが彼等に与えられた仕事だった。 しかしわずか7日目で、実験は中止。現在、この実験は禁止されている…。 (「es」のHPより)


「権威」について調べたアイヒマン実験の『服従の心理』を読んだだけなんだけれども、
なかなか興味深いのです。


例えば、いじめ。

中学生のとき、私が所属していた吹奏楽部内には伝統的な後輩いじめがありました。
先輩は力いっぱい後輩を従属させるというものです。
「私たちに尽くしなさいよ」
という先輩の言葉は未だに忘れられません。
部活を嫌だからって理由で休むとサボったと思われるから、(まぁ、そうなんだけど)風邪ってことにして学校まで休んじゃったって言うくらいに、苦痛でした。
いつもびくびくしていました。
でも、私は全く先輩が悪いなんて思わなかった。
むしろ、先輩に怒られる自分に「非」があると強く思い込んでいた。
また、先輩たちも、私のように過ごした後輩という時期があったからこそ、
(先輩が一番であるという認識を深めて言った時期)
私たち後輩を従属させた。

でも、これってすごくおかしいわけです。
本来ならば、楽器ができるから、よりうまくふけるからという理由で、先輩は敬われる存在であるはずなのに、単に学年が上だからというだけで、先輩が言うことなら何でもしなければなりませんでした。
校則を破ることであっても、法律を破ることであっても、友達をいじめるような行為であっても、
「先輩」という権威には逆らうことができない、という疑うことのできないと思い込みがありました。
また、少人数の問題ではなく、多くの生徒にとって自明のことでした。
当時の私に、
「私が罰せられる理由はどこにもないんだよ」
って教えてあげたとしても、きっと私は

「だって先輩が絶対なんだもん」
といったと思います。
このときの私には先輩に従うという責任しかありませんでした。


もう一つ、例えば
裁判。
さっき周防監督の「それでもボクはやってない」を見ました。
「日本」という国家権力に従順する裁判官(をこの作品は描いていたのだと私は思うんだけど)。
目に見えない「権威」には、たとえある事象が誤っていたとしても、従うことしかできない。
左遷されるかもしれないとか、不名誉であるとか、
「権威」という問題からは切れない要素もここにはあるわけですが、

でも、今までおおっぴらにこの不条理を嘆くことができなかった、
または嘆いたところで大きな声にはならなかったのは、
「権威」に立ち向かうことが、アブノーマルであると
人が考えるという要素もあるように感じます。



人は「権威」の元で、自分の「役割」を演じます。
それは単なる「役割」であって、本来的な私ではないと信じこみます。
そして自分のいかなる行為も正当化させます。



人ってこわい。
「自由意志を持ち、服従は絶対しない」と言うのではなく、
私って、そういう側面も持っているんだって言うことを覚えておくこと。
自分が何ものであるのかを知っておくこと。
それくらいにしか、私ができることはない気がしています。

(なんかレポートみたいになった・・・)

2008年5月24日土曜日

4分間のピアニスト

結構好き

っていうかかなり好き

こんな一番いいシーンを張っていいのか・・・
とか思うけど、私がもっかいみたいから張ります。
ラストシーンだよ~ この映画見る予定がない人はぜひ・・・

http://jp.youtube.com/watch?v=lU2G7vIA23c



キーワードは
・表現
・自由
・芸術
・暴力
・愛
かな・・・


私自身、自分を表現することが苦手なので、
「表現」にこだわりがあるためか、
なんというか、
この映画でのピアノシーンはすごく好き。
正直。

主人公がすごく暴力的であること、
自由を求めていること、
がうまく表裏一体。

同性愛者や、ナチス時代をひとりに二重に描いていることが、
特にこの映画の脚本のよさを感じさせます。

このあいだ、NHKの爆笑問題のニッポンの教養でゴリラの回の時に
ゴリラが鼻歌を歌う話から
音楽は言葉と違い「人を誘導しない」とありました。

アウトサイダーアートとして知られる
(アウトサイダーアートというそのカテゴリーはどうでもいいものだとは思いますけど)
坂上チユキさんの自己紹介に
「言葉は武器だ」、だから言葉では現せない世界をかくんだとありました。

人は共感を求めて言葉を遣い、後には説得、誘導、洗脳、戦争・・・
をしてしまう、そんなつもりがなくても・・・そういうことがある。

共感がほしいのは安心を求めるからだろうし、でも、だから言葉で簡単にことを片付けてしまって、
だれかと分かり合えないことが結構多い。
そして寂しい。

音楽はそんな言葉と気持ちの間に入ってくるものかもしれない。



なんだか、いっぱい言葉にしたい感じだったけど、
言葉に落とすと、いやー、なんだか思ったことが
反対につぶれてしまいそうで、うそっぽくなりそうで
よくない気がしてきた。
むーーーー

とりあえず、ここまで。笑
眠いし。
あーねれないかも。
泣いちゃうなー・・・

なんて抽象的なんだ・・・

2007年8月3日金曜日

『善き人のためのソナタ』


最近波乗りジョニーにはまってます。 アデオに行って知った!
もっと大きなカテゴリーで言うと、高級な豆腐にはまっています
外食するなら高級な豆腐(1丁150円くらい)を楽しんだほうがいい気がしてきました安!

とってもとっても感激してしまいました。
『善き人のソナタ』を見てきました。
http://www.yokihito.com/



~すとーりー~
東西ドイツ統一5年前(超すごい!この設定!)の東ドイツの物語です。当時の東ドイツには、シュタージと呼ばれる強大な監視システムを担う監視者がいました。監視、共産主義に背く人々の言論を押さえることなので、つまりそれは思想の監視だと思います。あるシュタージュはとある芸術家を監視しだします。国家のため、社会主義のために彼は当然のこととして芸術家の私生活を聞き続けます。しかし、盗聴器から聞こえる人間味にあふれた言葉、交わされる愛、美しいソナタ。
「この曲を本気で聴いたものは、悪人にはなれない」
次第に、シュタージュの内面に変化が現れだすのです。


~思ったこと~
まず、考えたのが、「自由」ということ。
自由とは「考えられる」「思想の自由」なのであって、
人はこれがないことには満足しえないのだろうと思いました。
それはこの作品の中にもいろんなキーワードとしてあらわれていると思います。

芸術、セックス、自殺、盗聴

東ドイツでは自殺者が増えすぎたためにその数を数えなくなり、
自殺者のことを「自己殺人者」と呼んだそうです。
自分で死を迎える能動性を否定されるのです。
それでも、自分の意思でできる【自殺】があるからこそ、思想を規制された多くの東ドイツの人々が自殺していったんですね。

ぞくっとします。

気になるのはセックス。
この映画には結構この場面が出てくるんですが、私はこれも芸術と並んでキーワードなきがしています。

それはパートナーに対する愛の表現であって、数字や定義されたものでない曖昧な人間らしさ。
(人間らしさって言葉って、曖昧でなんだか逃げみたい~まいっか~)
娼婦との無機質なセックス場面もあるのですが、両者はとても対比されていてその違いがくっきりしている。

辺見さんが「単独者」について語っていました。
人は共同体からはなれないことには主観的に考えることができなくなってしまうのだと。
単独者とは「自己」のことだと思います。
自分で考えることがないから大きいものに流される。
断固とした拒否をすることができない。
そうであってはいけないから、単独者でありなさい、と。

きっとこのシュタージは共同体内にいることに何の疑問ももたづに生きてきた。
国家のために生きることが自分の幸せだと信じてきた。
でも、芸術家と出会うことで初めて彼は「単独者」
になろうとした。
にゃ~~~~~~~ん泣けるねぇ・・・
なんだかどこにやられているのか曖昧だけど、私、こういうのにすっごく弱い~・・・



そしてもうひとつ、この「時代性」
パンフレットによると、この時代は今の今まで誰も言及できなかったくらいタブー視されていたものだそうです。
まるで「1984」でえがかれている管理社会。
ビックブラザーズ!!
本当にこんな時代があったのならば、
この時代は後世に伝えなければならないって思います。
管理する、管理されるということは、思想の弾圧、人間らしくあることの否定にまでつながるのだと語っていかなければならないんじゃないかな。


どこまで「リアル」を想像できるのか。
これも辺見さんの話からだけど、
たとえば「ダンサー・イン・ザ・ダーク」。
この映画には死刑執行のリアルさが事細かに描かれている。
人が死ぬとは、頚骨が折れることであり、汚いことであり、泣き叫ぶものであり、体を固定されるものであり、
こういう想像力のなさは世界のゆがみをつくってしまう。
ゆがみはいつの間にか広がって気がついたらもう取り返しがつかないところにきてしまう。
だから想像しなくちゃいけない、同時に歴史も学ばなくちゃならないんだろうな~


『1984』が好きな人には是非『善き人のためのソナタ』をおすすめ
だって舞台が1984年で絶対にかけてあるんだもん!(誰もパンフレットのなかでいってなかったから不安だけど・・・)