(2010年神島)
フォルツァ総曲輪でスティーヴン・ソダーバーグ監督の「ガールフレンド・エクスペリエンス」と
「バブル」
を二本続けてみてきた。
どちらも結構好きだった。
時給18万円を稼ぐ高級娼婦「チェルシー」の話。自分の仕事を理解してくれる彼氏もいる。2008年のリーマンショックで不景気なNYが舞台。大統領選や経済の話が映画のスパイスみたいにきいている印象。チェルシーが「人格論」とかいうのを絶対的に信じているのもかわいい気がした。久しぶりにあんまり説明のないタッチの映画を見たと思う。こういう空気感の作品は結構好きで満足。
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娼婦の経験はないけれど、どういう気持ちがするものなのかというのは時々考える。
見る映画や読む本に結構出てくるからかもしれないけど。
真っ白のおしろいを塗ったお顔で横浜をうろうろしていたい娼婦。所謂パンパン。
立場はことなるチェルシーとメリーさんだけれど、
がちがちに化粧してきれいな洋服を着込んで素顔を見せないあたりや、向上心があって自分の生き方にまっすぐな感じが結構にている気がした。
セックスというのは結構個人的で、
自分の内側と深く関わってくるものの気がしている。
普段どんなにかっこつけていい女やいい男を装っている人でも、
服を脱いで、裸になって、抱き合うセックス中は
単に快楽を求めているためだったとしても、
深い愛を確かめ合うためだったとしても
自分の内側をさらけださないわけにはいかないように思う。
きれいに身ぐるみをはがされたとき、人はセックスに快楽を感じられるのではないかな。
もし、↑の話がだいたいあっていたと仮定したら、セックスを売る商売は、客に快楽を販売することで成立する。
娼婦は、相手の装いをはがしてあげるために頑張らないといけなくなってくる。
客には相性の合う人や合わない人っていろいろいるわけだから、セックス中に個人的になっては商売は成立しない。
そのために、娼婦は何重にも心に仮面をかぶらなければならないんだろうし、
それはかなりきついことで、我慢や苦痛の上に成り立っていることなんじゃないかな・・・。
ただし、いずれの作品もこの大変さだけで語りを終わらせないところがけっこう気に入っているところ。
二人とも仮面をはずすとどうなるのかっていうのが完全にはわからない。
↑の話の全否定みたいなことをいうけれど、もしかしたら全然仮面なんてかぶっていないのかもしれないし、娼婦であることを含めて、もうこのままでほんとうの彼女たちなのでは、とも感じさせる。
メリーさんは最後に化粧をとった顔が「ほんとうの彼女」を暗喩しているようで、私には仮面をかぶり直しているんじゃないかとも思える。
チェルシーも個人的に思いをよせた男に会って涙目になるシーンは、彼女のなかで微妙なかけひきがあって完全に素顔とも言えないきがしてしまう。
昨日読んだ村上春樹の「トニー滝谷」は、服を何枚も何枚も買い込んで、見事に洋服を着こなす女性を愛する男の話だったけど、
何枚も何枚も着こなして、身にまとっていくその生き方は、
すごくすがすがしくて、華やかな描かれ方をしていた印象だった。
人は着飾って化粧をして、かっこつけようとするけれど、
かっこつけたことそのものが人の「人格」や「そのひと」を表していることも有るのではないかと思うときが結構あったりする。
娼婦という職業は、自分本来の生き方と、自分への偽りの狭間でぐるぐるぐるぐるしながらやっとできるものなのかもしれないって思う。(※娼婦によってもちがうだろうけども)
完全に「どちらかである」といいきれることよりも、それは複雑で人間味があることのように感じる。
■映画を見て思い出した作品
「ちぐはぐな身体ーファッションって何」鷲田清一
「ラスト、コーション」
「ヨコハマメリー」
「トニー滝谷」村上春樹
「女と男のいる舗道」ゴダール
とかとか・・・
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■そのた
映画館では私ともう一人の女性客しかいなくて、
すきまくっている感じもすごくよかった。
結構贅沢な感じ。
彼女の存在は微少だけど私の映画の見方に影響を与えていて、ちょっとした緊張感があった。
というのも面白い体験だった。
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