共同通信が5月20日あたりに配信した東日本大震災で被災した高校教諭の記事を読んでいたら、
なんだかとってもやるせない気持ちになって、思わずコピペした。
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絶望、悲しみ、かすかな希望…。原稿用紙約百枚分に上る手書きの文章からは、被災者の生々しい感情が伝わってくる。東日本大震災で家族を失った岩手県立大船渡東高校教諭の工藤幸男さん(56)が、十九日間の避難所生活で書き続けた日記を「生き残りしものの記」と題し、共同通信に寄せた。
工藤さんは三月十一日の地震発生時は勤務先にいてけがはなかったが、同県陸前高田市の自宅を失い、大学生の次男(20)は遺体で発見、妻(53)は行方不明のままだ。翌日から同市立第一中学校で、同中三年だった三男(15)と避難生活を始めた。
「何かをしていないと、おかしくなりそうで」と、普段から読書の記録用に持ち歩いていた大学ノートに日記を書き始めた。被災当初は妻と次男を案じ「二人がだめかもしれない」(三月十二日)「ここで頑張るか。でもどうやって?」(十三日)など、不安に揺れる気持ちを記載。
また「妻の安否を聞かれる。人の顔をよく見てくれ。これが無事な顔かよ」(十六日)といら立ちをあらわに。
その後は「休むのも生きるためだ」(二十日)などと前向きな表現も出始めるが、次男の遺体と対面し「ごめんな、何にもしてやれなかった」(二十四日)「これだけの試練はもう抱えきれない」(二十八日)と、つらく苦しい心情を吐露している。
三月末から教員住宅に三男と居住し、勤務に戻った工藤さん。文字がびっしりと書き記されたノートを手に「書き続けたから、何とか乗り越えられたのかもしれない。それほどにつらい日々だった」と振り返った。
避難所の日記要旨
ごめんな、何にもしてやれなかった
3月11日 永久に揺れ続けるかと思った。車で帰ろうとしたが、もう渋滞。学校に戻り、避難。通勤かばんを枕にして横になる。胸騒ぎしきり。
12日 高田第一中学校に着き、体育館に入る。妻、次男がいない。三男が上の階にいると告げられる。二人がだめかもしれないと話す。
13日 車で捜して回る。帰ってきて三男に手でばってんの合図。必死でこらえている。「引っ越さないか」と聞くと「みんなと高田高校に行きたい」と言う。そうか、そんならここで頑張るか。でもどうやって?
14日 昼食後、長男と義父母やってくる。夕食は菓子パン二つ。
15日 避難所に来てトイレの歴史が一気に五十年逆戻りした。穴に渡した二枚の板の上でする。
16日 妻の安否を聞かれる。人の顔をよく見てくれ。これが、無事なのが分かってほっとしている顔かよ。
17日 避難所で欲しくなるものは歯ブラシ。歯ブラシ一本でこうも気分が変わるのか。時折、どうしても涙ぐんでしまう。二人の死が判明したら大泣きするだろう。
18日 家の跡を見てきた。何もない。(遺体安置所の)体育館の床に並べられている遺体については、書けない。直接自分で見て、こういうものだと心に留めるべきだ。一言だけ書けば、死ぬ間際の表情のままである。
19日 巡回した保健師さんに血圧を測ってもらう。一八〇~一〇〇。
20日 インフルエンザ患者が二人。若いふりして外でボランティア活動をするのは控えよう。休むのも生きるためだ。
21日 新聞に次男の大学が載っていた。六百人が所在不明という。次男もその中にいる。
22日 県立高校の合格発表の日。夜、三男が「(高田高校に)合格だって」と帰ってきた。握手しようとしたら、こぶしを出したので、それを手で包み込んで“握手”。
23日 午後、江刺(の親族宅)へ。夕食までゆっくり布団で休んだ。温かい夕食。本当に生き残って、良かった。
24日 千葉の叔父から、全国紙に二人の死亡記事が載っているというファクスが入る。下矢作小学校へ。名簿を見る。次男が矢作中学校。妻は別の人のようだ。矢作中学校へ。二体が棺(ひつぎ)に納められていた。一つが次男だった。やはり助からなかった。そして、よく早く見つかってくれた。顔を確認した。きつく口を結んでいる。血が一直線に固まっている。苦しくて舌をかんだのだろうか。ごめんな、何にもしてやれなかった。
25日 火葬許可証の発行。書類を作ってくれる職員も涙ぐみながらの作業。奥州市でできるといわれた。
26日 型通りの手順で次男は焼かれた。生き続けたら、どんな人間になっていったろう。静かな曲を丁寧に弾くピアノの腕も捨てがたかった。
27日 妻はこの二カ月、しつこいくらい私の体に触りたがった。二人だけになると、私の服の下に手を入れてきて「ぬぐい、ぬぐい」とニヤニヤする。こんな形での突然の別れを予感していたのだろうか。
28日 これだけの試練を連日加えられると、一人では抱えきれず、くずおれそう(原文のまま)になる。
29日 これからのことは、生きてみなければ何も分からない。無理して明るく前向きな気持ちで(避難所を)出て行こうとは思うまい。それにしてもよく書いた。ボールペンを動かしているときだけでも、つらさを忘れていられると思いたい。
30日 五時起床。毛布を本部へ返却。皆さんにあいさつ。十九日間、本当にお世話になりました。
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