ときどき、いや、いつもかもしれない。
私は結構、人との間に壁を作ってしまいます。
コミュニケーションをとろうとしても、
なかなか自分を表現できなくて、
ぎこちなくその関係を終わらせてしまいます。
壁って言うのはステイタスとか、性別とか、学年とか、初対面であるとか、
いろんな種類があるでしょうけれど、
でも、多かれ少なかれ、壁の存在が私を辛くさせます。
だから、こうやってブログをつづるのも、
コミュニケーションをとりたいがための 一種の自己表現なんだろうと、
認識しています。
今日、映画「オハイエ とっておきの映画祭」を見てきました。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~totteoki/ohaie.htm
仙台市では、障害のある人とない人一緒に音楽を通して楽しもう!
というバリアフリーな「とっておきの音楽祭」が毎年開かれているそうです。
(とっておきの音楽祭HPhttp://www5b.biglobe.ne.jp/~totteoki/)
その特徴は、なんといっても街の人みんなで運営するところにあります。
400人あまりのスタッフはみんなボランティア。
ステージは物理的なバリアのないストリート。
買い物してる人、散歩してる人、ピクニックしてる人、
オーディエンスもいつの間にか音楽祭に巻き込まれてしまうのです。
脳性マヒのluluという男の子が途中出てきます。
彼はこの音楽祭に第1回目の8年前から参加しているそうです。
映像の中でジャンプまでしていたluluくんだけど、
監督が初めて彼に会ったとき、彼は話すことも、立つこともできなかったそうです。
でも、
「シンガーだからたって歌いたい。」
と、歌を歌いながら、お客さんの反応を感じながら、今ではジャンプするまでになったluluクン。
映画の中で、
「うまい、ヘタは関係ないんだ。歌えることなんだ」
というナレーションがあります。
私はいつもうまくコミュニケーションをとろうと、誰かとの間に壁を立ててしまうけれど、
触れ合いたいんだ、 共有したいんだ、 と
どんなにへたであっても表現することが、 バリアをぶちこわしていることに、気がついていきます。
ボランティアスタッフが、
「だって楽しいから、毎年参加してるんです」
といっていました。
みんなバリアがないのが楽しいから、
街中が活気付いているんだと思います。
来年はこのお祭りのスタッフしたいと思います。
私は結構、人との間に壁を作ってしまいます。
コミュニケーションをとろうとしても、
なかなか自分を表現できなくて、
ぎこちなくその関係を終わらせてしまいます。
壁って言うのはステイタスとか、性別とか、学年とか、初対面であるとか、
いろんな種類があるでしょうけれど、
でも、多かれ少なかれ、壁の存在が私を辛くさせます。
だから、こうやってブログをつづるのも、
コミュニケーションをとりたいがための 一種の自己表現なんだろうと、
認識しています。
今日、映画「オハイエ とっておきの映画祭」を見てきました。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~totteoki/ohaie.htm
仙台市では、障害のある人とない人一緒に音楽を通して楽しもう!
というバリアフリーな「とっておきの音楽祭」が毎年開かれているそうです。
(とっておきの音楽祭HPhttp://www5b.biglobe.ne.jp/~totteoki/)
その特徴は、なんといっても街の人みんなで運営するところにあります。
400人あまりのスタッフはみんなボランティア。
ステージは物理的なバリアのないストリート。
買い物してる人、散歩してる人、ピクニックしてる人、
オーディエンスもいつの間にか音楽祭に巻き込まれてしまうのです。
脳性マヒのluluという男の子が途中出てきます。
彼はこの音楽祭に第1回目の8年前から参加しているそうです。
映像の中でジャンプまでしていたluluくんだけど、
監督が初めて彼に会ったとき、彼は話すことも、立つこともできなかったそうです。
でも、
「シンガーだからたって歌いたい。」
と、歌を歌いながら、お客さんの反応を感じながら、今ではジャンプするまでになったluluクン。
映画の中で、
「うまい、ヘタは関係ないんだ。歌えることなんだ」
というナレーションがあります。
私はいつもうまくコミュニケーションをとろうと、誰かとの間に壁を立ててしまうけれど、
触れ合いたいんだ、 共有したいんだ、 と
どんなにへたであっても表現することが、 バリアをぶちこわしていることに、気がついていきます。
ボランティアスタッフが、
「だって楽しいから、毎年参加してるんです」
といっていました。
みんなバリアがないのが楽しいから、
街中が活気付いているんだと思います。
来年はこのお祭りのスタッフしたいと思います。
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