2008年6月20日金曜日

権威


最近、「es」という映画を見てから、「服従」に興味を持って、考えていました。
(esのHP http://www.gaga.ne.jp/es/)

この作品は1971年におこなわれたある実験を再現するような形で撮られた作品です。
実験って言うのは・・・・

1971年、スタンフォード大学心理学部で、ある実験が試みられた。被験者は新聞広告によって集められた24名。彼らは、無作為に「看守役」と「囚人役」 に分けられ、監視カメラ付きの模擬刑務所に収容された。二週間、いくつかのルールに従いながら自分の役を演じること、それが彼等に与えられた仕事だった。 しかしわずか7日目で、実験は中止。現在、この実験は禁止されている…。 (「es」のHPより)


「権威」について調べたアイヒマン実験の『服従の心理』を読んだだけなんだけれども、
なかなか興味深いのです。


例えば、いじめ。

中学生のとき、私が所属していた吹奏楽部内には伝統的な後輩いじめがありました。
先輩は力いっぱい後輩を従属させるというものです。
「私たちに尽くしなさいよ」
という先輩の言葉は未だに忘れられません。
部活を嫌だからって理由で休むとサボったと思われるから、(まぁ、そうなんだけど)風邪ってことにして学校まで休んじゃったって言うくらいに、苦痛でした。
いつもびくびくしていました。
でも、私は全く先輩が悪いなんて思わなかった。
むしろ、先輩に怒られる自分に「非」があると強く思い込んでいた。
また、先輩たちも、私のように過ごした後輩という時期があったからこそ、
(先輩が一番であるという認識を深めて言った時期)
私たち後輩を従属させた。

でも、これってすごくおかしいわけです。
本来ならば、楽器ができるから、よりうまくふけるからという理由で、先輩は敬われる存在であるはずなのに、単に学年が上だからというだけで、先輩が言うことなら何でもしなければなりませんでした。
校則を破ることであっても、法律を破ることであっても、友達をいじめるような行為であっても、
「先輩」という権威には逆らうことができない、という疑うことのできないと思い込みがありました。
また、少人数の問題ではなく、多くの生徒にとって自明のことでした。
当時の私に、
「私が罰せられる理由はどこにもないんだよ」
って教えてあげたとしても、きっと私は

「だって先輩が絶対なんだもん」
といったと思います。
このときの私には先輩に従うという責任しかありませんでした。


もう一つ、例えば
裁判。
さっき周防監督の「それでもボクはやってない」を見ました。
「日本」という国家権力に従順する裁判官(をこの作品は描いていたのだと私は思うんだけど)。
目に見えない「権威」には、たとえある事象が誤っていたとしても、従うことしかできない。
左遷されるかもしれないとか、不名誉であるとか、
「権威」という問題からは切れない要素もここにはあるわけですが、

でも、今までおおっぴらにこの不条理を嘆くことができなかった、
または嘆いたところで大きな声にはならなかったのは、
「権威」に立ち向かうことが、アブノーマルであると
人が考えるという要素もあるように感じます。



人は「権威」の元で、自分の「役割」を演じます。
それは単なる「役割」であって、本来的な私ではないと信じこみます。
そして自分のいかなる行為も正当化させます。



人ってこわい。
「自由意志を持ち、服従は絶対しない」と言うのではなく、
私って、そういう側面も持っているんだって言うことを覚えておくこと。
自分が何ものであるのかを知っておくこと。
それくらいにしか、私ができることはない気がしています。

(なんかレポートみたいになった・・・)

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