(2010/05/海王丸パーク)
「ザ・コーヴ」いついておもったこと。
●作品のつくりについて、ざっくり
ストーリー性もあるし、監督のいいたいことが伝わってくる、という気がします。
登場人物にも感情移入できて、編集も手が込んでいると思う。
なかなつくりはプロ級。お金かかっていそうかな。
感情的なシーンが多いようで、
だから一人称の小説を読んでいるような気分だった。
しらけて見ちゃった場合は面白いと思えないんだろうけど、でもうまく感情移入できれば面白いと感じると思う。
●取材について
・いろんな人に話を聞いているように感じた。
ただ、太地町に住む人や漁師さんへの取材はなかったように思う。
もし拒否されて取材できないにしても、その理由があればよりよかったと、自分は思うと思う。取材しようとしているシーンがひとつあるだけで違うかもしれない。
・個別になるけど、いるかの肉が鯨の肉として全国で売られているっていう話についてはなんのことかわからなかった。
どれくらい売れてるとか、うっている数とか量とかそういうのはちゃんと説明してほしいかも、と思った。
・もう一つ、あそこまでモザイクだらけなのは私は好きではない。
隠し撮りだからなんだろうけれど、うーん、
あきらかに隠し撮りでもないもの[ほんとうはかくしどりなのかな・・・[カメラに向かって話していたけど]もモザイクなのは何でなんだろう。
なにか意図があるのかな。
みえちゃうとよくないことがあるんだろうと思っていろいろ考えては見たんだけど。
モザイクをかけることで個人を匿名化して「日本人」として一般化したいんだろうか、とか
もうただつけることになれちゃったからだろうか、とか。
ワイドしょー・・・??モザイクかけることで悪者感は増幅する気がする。
・水銀の数値については、私は間違っているのかあっているのか、一人の力で判断できないから、一視聴者としてはなにも言えない。
全くないことをひねりだして作っているのだとしたらおかしいと思うけど、そこはちゃんと確かめないと。確かめてない私には何も言えない。
●いるかの肉を食べてはいけないことについて
いるかを殺してはいけない理由には頭の良さがあげられていたように思う。
頭の良さと自己認識能力だったか。
うーん、日本に25年いきた私には全然共感できないなぁ。
きっと日本人も「「●●人」にはみんな自己認識能力があるし賢いほ乳類なんだ。だから殺してはいけない」、とかっていわれたら「そうだ」となるんだろうし、そこにあきらかな根拠なんて示されていないんだから同じと言えば同じかもしれない。
ずっとずっとこの作品を見ながら考えていたのは新潮社の「考える人」の今月号の村上春樹ロングインタビュー。
村上「善とか悪とかいうのは絶対的な観念ではなくて、あくまで相対的な観念であって場合によってはがらりと入れ替わることもある。だから、何が善で何があくかということは、今われわれに何かを『強制している』もの、それが善的なものか悪的なものかを、個々の人間が個々の場面で見定めていかざるをえない。それは作業としてすごく孤独できついことですよね・・・。システムはそれがどのようなシステムであれ、個々の人間が個々に決断をくだすことを、ほとんどの場合認めないということです・・・。(クローズドサーキット=閉ざされたシステムでは)人は方向感覚を奪われ、強制する力が善であるか悪であるかということすら判断できない状況においこまれます」
何が善で何が悪なのか、というのはおおかたの場合、私が今生きているシステムの中でおのずと決められているのかもしれない。
「私」がシステムなしには語れないとしたなら、もしもシステムの一つでしかなかったなら、
私なんていないことになってしまうけど。
まぁ、それは置いておいて、「私」なりの答えを見つけたいと思ったら、やっぱりどちらかを拒否するのではなく、どちらをも聞いてみる姿勢が必要なんだろうと、思う。
春樹はふたつの「クローズドサーキット」=「閉ざされたシステム」であっても、お互いに移動することができる、声を聞くことができるっていう希望や望みみたいなものをやっぱり1Q84でも、海辺のカフカでも世界の終わりでも・・・いっているように私は思うんだけれど、私も春樹のいっているであろうことを信じたい。
そしたら、そしたらこのいるか漁に対する回答は私のなかで生まれてくる。
私の意見をだれかに伝えたいと思えば、それを映画を作った彼らのように伝えないといけないと思うし、同時に私とは違う意見の相手の声を聞く姿勢をもつべきだとも思う。
●ドキュメンタリーについて
「ドキュメンタリーは真実を写す、なんていうのはぜったいない」というようなことを
大学1年の時に森達也さんがいっていたのをきいて、マスメディアへの道にすすみたいと思ったんじゃないかな、と今思う。
ドキュメンタリーは嘘をつく。
どんなドキュメンタリー作品にも監督の意志やメッセージがきっとある。
事実を曲げることはねつ造だろうから、それは絶対にいけないけれど、
演出であれば、いまのところそれは許されている。のを、毎日テレビやマスコミの報道を見て気がつかされる。
ただ、メディアや報じることのできる人間は、報じる場所をもっているわけで、それは人を簡単に傷つける武器にもなるということをちゃんと感じていないといけないともおもう。
だから一人称の小説を読んでいるような気分だった。
しらけて見ちゃった場合は面白いと思えないんだろうけど、でもうまく感情移入できれば面白いと感じると思う。
●取材について
・いろんな人に話を聞いているように感じた。
ただ、太地町に住む人や漁師さんへの取材はなかったように思う。
もし拒否されて取材できないにしても、その理由があればよりよかったと、自分は思うと思う。取材しようとしているシーンがひとつあるだけで違うかもしれない。
・個別になるけど、いるかの肉が鯨の肉として全国で売られているっていう話についてはなんのことかわからなかった。
どれくらい売れてるとか、うっている数とか量とかそういうのはちゃんと説明してほしいかも、と思った。
・もう一つ、あそこまでモザイクだらけなのは私は好きではない。
隠し撮りだからなんだろうけれど、うーん、
あきらかに隠し撮りでもないもの[ほんとうはかくしどりなのかな・・・[カメラに向かって話していたけど]もモザイクなのは何でなんだろう。
なにか意図があるのかな。
みえちゃうとよくないことがあるんだろうと思っていろいろ考えては見たんだけど。
モザイクをかけることで個人を匿名化して「日本人」として一般化したいんだろうか、とか
もうただつけることになれちゃったからだろうか、とか。
ワイドしょー・・・??モザイクかけることで悪者感は増幅する気がする。
・水銀の数値については、私は間違っているのかあっているのか、一人の力で判断できないから、一視聴者としてはなにも言えない。
全くないことをひねりだして作っているのだとしたらおかしいと思うけど、そこはちゃんと確かめないと。確かめてない私には何も言えない。
●いるかの肉を食べてはいけないことについて
いるかを殺してはいけない理由には頭の良さがあげられていたように思う。
頭の良さと自己認識能力だったか。
うーん、日本に25年いきた私には全然共感できないなぁ。
きっと日本人も「「●●人」にはみんな自己認識能力があるし賢いほ乳類なんだ。だから殺してはいけない」、とかっていわれたら「そうだ」となるんだろうし、そこにあきらかな根拠なんて示されていないんだから同じと言えば同じかもしれない。
ずっとずっとこの作品を見ながら考えていたのは新潮社の「考える人」の今月号の村上春樹ロングインタビュー。
村上「善とか悪とかいうのは絶対的な観念ではなくて、あくまで相対的な観念であって場合によってはがらりと入れ替わることもある。だから、何が善で何があくかということは、今われわれに何かを『強制している』もの、それが善的なものか悪的なものかを、個々の人間が個々の場面で見定めていかざるをえない。それは作業としてすごく孤独できついことですよね・・・。システムはそれがどのようなシステムであれ、個々の人間が個々に決断をくだすことを、ほとんどの場合認めないということです・・・。(クローズドサーキット=閉ざされたシステムでは)人は方向感覚を奪われ、強制する力が善であるか悪であるかということすら判断できない状況においこまれます」
何が善で何が悪なのか、というのはおおかたの場合、私が今生きているシステムの中でおのずと決められているのかもしれない。
「私」がシステムなしには語れないとしたなら、もしもシステムの一つでしかなかったなら、
私なんていないことになってしまうけど。
まぁ、それは置いておいて、「私」なりの答えを見つけたいと思ったら、やっぱりどちらかを拒否するのではなく、どちらをも聞いてみる姿勢が必要なんだろうと、思う。
春樹はふたつの「クローズドサーキット」=「閉ざされたシステム」であっても、お互いに移動することができる、声を聞くことができるっていう希望や望みみたいなものをやっぱり1Q84でも、海辺のカフカでも世界の終わりでも・・・いっているように私は思うんだけれど、私も春樹のいっているであろうことを信じたい。
そしたら、そしたらこのいるか漁に対する回答は私のなかで生まれてくる。
私の意見をだれかに伝えたいと思えば、それを映画を作った彼らのように伝えないといけないと思うし、同時に私とは違う意見の相手の声を聞く姿勢をもつべきだとも思う。
●ドキュメンタリーについて
「ドキュメンタリーは真実を写す、なんていうのはぜったいない」というようなことを
大学1年の時に森達也さんがいっていたのをきいて、マスメディアへの道にすすみたいと思ったんじゃないかな、と今思う。
ドキュメンタリーは嘘をつく。
どんなドキュメンタリー作品にも監督の意志やメッセージがきっとある。
事実を曲げることはねつ造だろうから、それは絶対にいけないけれど、
演出であれば、いまのところそれは許されている。のを、毎日テレビやマスコミの報道を見て気がつかされる。
ただ、メディアや報じることのできる人間は、報じる場所をもっているわけで、それは人を簡単に傷つける武器にもなるということをちゃんと感じていないといけないともおもう。
公正な取材は無理だと思う。でも公正な取材を目指さないといけないんだろうな。
自分が絶対に公平で公正な取材をすることがきないという認識からそれははじまると思う。