2011年8月21日日曜日

妊娠

(2011/08/20自宅で)
7月に妊娠した。 以来、ものの見方がかわったと思う。 うれしいことには前より笑うようになった。 どんなに小さなことにでも、不安や寂しさを感じるようになった。 好きな音楽を聞いたり、絵をみたりすると、それだけで涙がこぼれることが多くなった。 他人の赤ちゃんを見ると恥ずかしい気持ちになるし、
超音波の機械で赤ちゃんの陰が見えると、本当にうれしくて仕方がない。
やっぱりまた泣いてしまう。 すごいね、大きくなって、って話しかけてしまう。

そのときどきの状況によって、人はいろんなことを感じたり、見えたりするようになると思う。
正解はないし、そのときどきで自分の感じたことに正直でいるべきだとも思う。 ある友人のブログを読んで、 妊娠がきっかけで仕事に追い詰められて、辛いと思っている自分を見直させられた。 それは少し、自分に対してうそをついていることだと思う。 って書いてたら、やっぱり今も涙が出る。

めそめそ



2011年7月7日木曜日

誕生日

                     (2010年の夏くらい 新湊の海)
26歳になった日の朝8時半ごろ。
ケータイに知らない番号から電話がかかってきて、取った。
「まきちゃん?」
父の叔父(大叔父)の妻(大叔母)だった。
大叔父は5日前に73歳でガンで死んだばかりだった。

「お誕生日でしょう?おめでとう」
高くて明るい声がケータイの中で響いた。

私の番号は大叔父の携帯に登録されていたのだろう。
大叔母から電話がかかってくるなんて初めてだったし、
親戚といっても、会う機会の少ない間柄。
加えて、5日前に夫を亡くした大叔母の気持ちを思うと、
私はどんな風に話していいのかわからなくなった。

「お通夜ではね、まきちゃんの弔電を代表で読んでもらったのよ。ありがとう」
それは、通夜に行けないときのために念のため出しておいたものだった。
 『(略)お悔やみ申し上げます。遊びに行くと、おじさんがいつも優しく迎えてくれて、うれしかったです』
確か、そんな風に書いて送っていたな、と思い出した。

通夜は仕事でどうしてもいけなくて、それでも仕事を早引きしたけど間にあわなかったんですって、
そんな言い訳をしようかな、と思ったけど、何の意味もないと思ってやめた。

「また、遊びにきてね」
そういって、ぎこちなくて短い会話を終えると、私たちは電話を切った。

そしたら涙がぽろぽろ出てきた。
私と大叔父は同じ誕生日。
亡くなった夫の誕生日に私に「おめでとう」といってくれた大叔母の気持ちはどんなものだったのだろう。
私に大叔父を重ね合わせて、ふと、「おめでとう」と言いたくなったのだろうか、
私に何か言葉をかけたくなったのだろうか、

複雑だったろう大叔母の気持ちと
明るく響いた大叔母の声とを思うと、
やっぱり涙がこぼれた

ただ、私は、大叔母が電話してきてくれたことが、うれしかった。

2011年6月23日木曜日

ねこ

                              (2011/06/17 高岡)

                      ねこ    
ねこ  
    ねこ

2011年5月25日水曜日

懐かしいかんじ

懐かしいかんじにするには、決まったフォーマットがあるのかも。

(2011/05/25 高岡市)

カメラの「トイカメラ」機能で撮影すると、写真のふちが黒くなった。
ちょっと切ないような、懐かしいかんじ。


懐かしさっていうのは、人それぞれがもっている記憶と対象が
リンクするときに出来るんだろうと思う。
それをある程度つくれてしまえるのは、
記憶っていうのは、はっきりくっきりしたものではなくて、
ぼんやりと、ふんわりとしたイメージの中にあるからなんだろうなって思う。
どこかぼんやりとしていた方がリアルだなって感じるときがあるのはそういうことに近いと思う。

              原風景
            アレ・ブレ・ボケ
             (森山大道)

でも、ちょっとずるいと思うのは、
懐かしい感じが簡単につくれてしまうこと。
こんなにも簡単に作れてしまうと、私の頭のなかには
全然原風景と関係がなくても、懐かしさを感じられる
フォーマットがあるのかもしれないって疑ってしまう。
懐かしいと感じることが、なんだかもったいない気がしてしまう。
「懐かしいなぁ」って思うのなら、もうすこし気持ちを込めて思いたい。

2011年5月24日火曜日

                        (2010年の初夏くらい 愛知県)

共同通信が5月20日あたりに配信した東日本大震災で被災した高校教諭の記事を読んでいたら、
なんだかとってもやるせない気持ちになって、思わずコピペした。

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 絶望、悲しみ、かすかな希望…。原稿用紙約百枚分に上る手書きの文章からは、被災者の生々しい感情が伝わってくる。東日本大震災で家族を失った岩手県立大船渡東高校教諭の工藤幸男さん(56)が、十九日間の避難所生活で書き続けた日記を「生き残りしものの記」と題し、共同通信に寄せた。
 工藤さんは三月十一日の地震発生時は勤務先にいてけがはなかったが、同県陸前高田市の自宅を失い、大学生の次男(20)は遺体で発見、妻(53)は行方不明のままだ。翌日から同市立第一中学校で、同中三年だった三男(15)と避難生活を始めた。

 「何かをしていないと、おかしくなりそうで」と、普段から読書の記録用に持ち歩いていた大学ノートに日記を書き始めた。被災当初は妻と次男を案じ「二人がだめかもしれない」(三月十二日)「ここで頑張るか。でもどうやって?」(十三日)など、不安に揺れる気持ちを記載。

 また「妻の安否を聞かれる。人の顔をよく見てくれ。これが無事な顔かよ」(十六日)といら立ちをあらわに。

 その後は「休むのも生きるためだ」(二十日)などと前向きな表現も出始めるが、次男の遺体と対面し「ごめんな、何にもしてやれなかった」(二十四日)「これだけの試練はもう抱えきれない」(二十八日)と、つらく苦しい心情を吐露している。

 三月末から教員住宅に三男と居住し、勤務に戻った工藤さん。文字がびっしりと書き記されたノートを手に「書き続けたから、何とか乗り越えられたのかもしれない。それほどにつらい日々だった」と振り返った。


避難所の日記要旨
 ごめんな、何にもしてやれなかった 
 3月11日 永久に揺れ続けるかと思った。車で帰ろうとしたが、もう渋滞。学校に戻り、避難。通勤かばんを枕にして横になる。胸騒ぎしきり。
 12日 高田第一中学校に着き、体育館に入る。妻、次男がいない。三男が上の階にいると告げられる。二人がだめかもしれないと話す。

 13日 車で捜して回る。帰ってきて三男に手でばってんの合図。必死でこらえている。「引っ越さないか」と聞くと「みんなと高田高校に行きたい」と言う。そうか、そんならここで頑張るか。でもどうやって?

 14日 昼食後、長男と義父母やってくる。夕食は菓子パン二つ。

 15日 避難所に来てトイレの歴史が一気に五十年逆戻りした。穴に渡した二枚の板の上でする。

 16日 妻の安否を聞かれる。人の顔をよく見てくれ。これが、無事なのが分かってほっとしている顔かよ。

 17日 避難所で欲しくなるものは歯ブラシ。歯ブラシ一本でこうも気分が変わるのか。時折、どうしても涙ぐんでしまう。二人の死が判明したら大泣きするだろう。

 18日 家の跡を見てきた。何もない。(遺体安置所の)体育館の床に並べられている遺体については、書けない。直接自分で見て、こういうものだと心に留めるべきだ。一言だけ書けば、死ぬ間際の表情のままである。

 19日 巡回した保健師さんに血圧を測ってもらう。一八〇~一〇〇。

 20日 インフルエンザ患者が二人。若いふりして外でボランティア活動をするのは控えよう。休むのも生きるためだ。

 21日 新聞に次男の大学が載っていた。六百人が所在不明という。次男もその中にいる。

 22日 県立高校の合格発表の日。夜、三男が「(高田高校に)合格だって」と帰ってきた。握手しようとしたら、こぶしを出したので、それを手で包み込んで“握手”。

 23日 午後、江刺(の親族宅)へ。夕食までゆっくり布団で休んだ。温かい夕食。本当に生き残って、良かった。

 24日 千葉の叔父から、全国紙に二人の死亡記事が載っているというファクスが入る。下矢作小学校へ。名簿を見る。次男が矢作中学校。妻は別の人のようだ。矢作中学校へ。二体が棺(ひつぎ)に納められていた。一つが次男だった。やはり助からなかった。そして、よく早く見つかってくれた。顔を確認した。きつく口を結んでいる。血が一直線に固まっている。苦しくて舌をかんだのだろうか。ごめんな、何にもしてやれなかった。

 25日 火葬許可証の発行。書類を作ってくれる職員も涙ぐみながらの作業。奥州市でできるといわれた。

 26日 型通りの手順で次男は焼かれた。生き続けたら、どんな人間になっていったろう。静かな曲を丁寧に弾くピアノの腕も捨てがたかった。

 27日 妻はこの二カ月、しつこいくらい私の体に触りたがった。二人だけになると、私の服の下に手を入れてきて「ぬぐい、ぬぐい」とニヤニヤする。こんな形での突然の別れを予感していたのだろうか。

 28日 これだけの試練を連日加えられると、一人では抱えきれず、くずおれそう(原文のまま)になる。

 29日 これからのことは、生きてみなければ何も分からない。無理して明るく前向きな気持ちで(避難所を)出て行こうとは思うまい。それにしてもよく書いた。ボールペンを動かしているときだけでも、つらさを忘れていられると思いたい。

 30日 五時起床。毛布を本部へ返却。皆さんにあいさつ。十九日間、本当にお世話になりました。

2011年5月22日日曜日

こいのぼり2


    (2010年5月 ひるがの高原)
去年もかいたけど、
こいのぼりを最初に考えた人はやっぱりすごい!!
尾っぽがとっても翻ってる。


2011年5月11日水曜日

(2011/02/13 箱根)

よくいく喫茶店のお兄さんに
「きょう行った美術展、なんだかおもしろくなかったんです。どきどきしなかった」
って話をした。
お兄さんは
「自分のことを思うことができなかったんじゃない」
と答えた。

そういえば、Kさんが講演会で「絵を見ることは自分を見ること」って言っていたような記憶がある。
「マイブルーベリーナイツ」では「他人って鏡みたい。みんな他人を見て自分を見てる」
って台詞もあったような。

絵を見ることは自分をみているということでもあるというのは、うなずける。
感覚的に。
それに、自分で思いを巡らさないと何かを感じることはできないというのもそうだと思う。
そして、私の場合、確かに自分に返ってなにかを想像することが前よりも少なくなっていると思う。
今回面白くなかったのも、お兄さんの指摘の通りの部分があるはずだと思う。

でも、もうひとつ。
絵に向かうときにはやっぱり、絵を描いた人がいて、
彼が何かを訴えてこなければ響いてこないことも当然あるはずだと思う。

2011年5月8日日曜日

きゅうじつ

                   (おでかけ~2011/02 山梨だっけ?)

気になっていた富山県立近代美術館の企画展「現代中国の美術」へ行ってきた
3年くらい前か、大学時代に東京のある美術館(名前忘れた)へ見に行った中国現代美術展みたいなのがけっこう面白かったのを覚えていて、
結構期待していた。
んだけど、あんまりどきどきしなくて、ちょっと残念。
いいなぁって思う作品も2つくらいしかなくて、私としてはちょっと物足りない
政府の美術展の作品だったからかなぁ。
久しぶりの美術館だったからかなぁ
もっとぶっとんだ感じがどうしてもほしかったよー
場合によってはきもちわるいくらいがほしかったー
みんな上手だったー
炭坑で働く人の絵が好きだったかなー

うーん、ねむいー。

それよりも、美術館をでて駐車場にいくまでに通る公園の雰囲気がとってもよくて
きもちいなぁ
初夏のかぜ
澄んだ空気
お日様が斜めに入ってきてるー
寝そべって
本よんでたい感じ

ぼんやりー


あー
仕事しよー

わー、ただの日記だー

2011年4月30日土曜日

かべ


(2011/4/30 高岡市中心部)


今日、気に入ったかべ


                      

2011年3月27日日曜日

いんよう

(2010年8月神島)

■家にあった鎌仲ひとみさんと肥田舜太郎さんの「内部被爆の脅威」

武田邦彦 (中部大学)さんのサイト


がわかりやすいと思う
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政府とマスコミがごまかしを始めた。これはどうしてもすぐ多くの人が気がついて理解しておかなければならない。
それは「1時間あたりの放射線」と「そこに住んでいる子供が受ける放射線」の問題だ。実に危険なごまかしを始めた。
放射線の強さを「シーベルト」で示すが、これには「年間にあびるシーベルト」、「1時間あたりのシーベルト」、「白血病になるシーベルト」、「瞬時にあびるシーベルト」と4つある.
この複雑なことを利用して、昨日から政府とマスコミは歩調を合わせてごまかし始めた。子供をもつ親はその責任から、絶対に次のことを理解して欲しい。(今、私は計算中)
・・・・・・・・・
まず、法律で決められた「普通の人は一年に1ミリシーベルトまで(自然放射線を除く)」というのは、「1年間」だ。政府発表やテレビで報道しているシーベルトは「1時間あたりのシーベルト」だから、1ヶ月少し(42日)住んでいるところの場合、それを1000倍する必要がある。
白血病になるシーベルトは約400ミリシーベルトで、これは1時間でも1年でもなく、そのままである。だから1時間400マイクロシーベルトのところに1時間いても大丈夫だが、1ヶ月あまり住んでいると白血病になる.
レントゲンを受けると「一度に600マイクロシーベルト」の放射線を受けるが、これは瞬時である.
・・・・・・・・・どのぐらいで何が起こるか・・・・・・
4シーベルト       死ぬ
400ミリシーベルト   白血病
1ミリシーベルト(1年) 法律で定められた限界
・・・・・・・・・・・・
1) 福島原発2号炉から放射線が漏れたときに枝野官房長官が発表した数値は1時間に400ミリシーベルト。
もし、その場所に1ヶ月少し住んだら、400シーベルトになり死亡.その100分の1で死亡するから1日いたら死亡する)
2) 文部科学省が3月16日に発表した福島原発から20キロの地点(福島県浪江町周辺)の放射線は1時間330マイクロシーベルトであった(1時間あたりと思う)。
(そこに1ヶ月少し住んだら330ミリシーベルトになり、白血病になる数値・・・これをテレビでは「安全な放射線」と言っていた。)
3) 3月15日頃の東京の高い値は1マイクロシーベルトぐらいだった。
(東京に1ヶ月少し住むと、1ミリシーベルトで、1年ぐらい住むと子供はかなり危険。胃のレントゲンが1回で600マイクロシーベルトだから、1ヶ月で2回のレントゲンを受けることになる。)
・・・・・・・・・
【政府のトリック】
政府やマスコミは「福島原発から20キロのところの放射線は、330マイクロシーベルトだから、胃のレントゲンの2分の1」という言い方をしている。だから安全という.
しかしそれは「そこに1時間しかいない人」の事であり、住んでいる人ではない。だから、1ヶ月あまり住む人は330ミリシーベルトを浴びることになり、子供も親も白血病になるだろう.
すぐ待避しなければならない。決して「安全な放射線」ではないのだ。
・・・・・・・・・
今、私(武田)は少し動揺している.
もし文部科学省が16日に発表した値が正しく、私の計算があっていれば、政府は直ちに浪江町の人をもっと遠く(風上)に待避させる必要があるからだ。
でも、まったくその気配はない.なぜなのか?
私の計算が間違っているのか? それでは浪江町の少し南の人はどうなのだろうか?たとえばある地点で測定してみるとその3分の1の100マイクロシーベルトのところに住んでいる人は、3ヶ月住むと白血病になる.子供はさらに早いかも知れない。
もう一度、慎重に考えてみる.もしこの計算が本当なら大変だが、どこかに間違いがあることを願う.原子力の専門の人、チェックしてください。もし、この計算が正しいと大変ですから。間違えていたらすぐ訂正します。でも重要な事ですから。
南無三! 私の勘違いであってくれ!
(平成23317日 午前9時30分 執筆) 武田邦彦
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■メモ
肥田さんは著書で
「放射線の量がある一定以下であれば人体に全く問題はない」
「自然に存在する放射線の核種も人工で作り出した放射線の核種も人体に与える影響は全く同じである」
とする政府の考え方を「間違い」って指摘してる。(101ページ)

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※一部フォントが整わないー

2011年2月27日日曜日

日記・つぶ

(2011年2月13日 ゆき)

おばあちゃんの小さい目から
大きな涙の粒がひとつ、ひとつ、またひとつとこぼれ落ちた

気がついたら、私も一緒にたくさんのつぶを落としてた

私たちは二人で一緒にないた

「大丈夫ですよ。大丈夫なんです、きっと」
「ありがとう、ありがとう・・・」

言葉だけ見ると会話は成り立ってなかったけど、
そのとき、二人の間では十分に成り立ってた

おばあちゃんが背負っているモノが少しだけ見えた気がしてた。
すごく重くて、重みでつぶされた心から涙があふれて出たみたいだった。

2011年2月22日火曜日

写真2月22日

   (2011年2月13日 箱根かな?)


ふじたんたん