きのう、
千里浜のドライブウェーにいって、
カラスが動物の死体をつついている光景を発見した。
波打ち際に転がる死体。
ねこかいたちか、もうわからない。
顔面は骨が浮き出ていて、
かろうじて体とくっついている皮は、すごくきれいにはがれている。
ソーセージをつつんでるビニルをはがすみたい。
カラスは2匹が3匹になって最後に四匹になった。
四匹は死体の肉をついばんだ。
死体。
死体は暴力的。
動物の死体を観ているだけなのに、ちょっとした罪悪感。
死体はそれだけでどこか人を傷つける力をもつのかも。
友達がぱしゃぱしゃと死体の写真を撮っていて、私はその光景をみながらハーゲンダッツを食べていた。
ハーゲンダッツはおいしかったけど、変な味がした。
そういえば3年くらい前に中国の現代美術展にいったことがある。
死体派っていうのがあった。
みているのが苦しかった。
「私は死にます」ってみんなで言い続けるのとか、
老人ホームにいるような各国のおじいちゃん人形がぐるぐるフロアをまわっているのとか・・・
「やりすぎ」と正直思った。
きもちわるい。
ただ、二度といきたくないとかそういうんじゃなくて、心地いい不快感を感じた、という感じ。
悪くないっていうのが、見終わったときの感想だった。
死体が持っている非日常性は人の心を傷つけるかもしれないけれど、
それぐらいの覚悟を持って立ち向かうことでやっと作品との、何かとのコミュニケーションになる。
なにも心に響かないことより、なにかしら傷つけられる方が私は好きなんだと思う。
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そのほか
↑より
*「死体が自分を写す鏡だっていうのは、それが明日の我が身だからなんだよ。まあ手触りを感じないままに変に情報過多になっちゃってると、そういう当たり前のことを忘れちゃって自分の暗い面ばかりが肥大化しちゃうんだろうね」
*「いや、死体はそれ以上でもなければ、それ以下でもない、っていう言い方をするけど、それは決してドライな言い方をしてるわけじゃなくて、逆に特殊な存在だっていうようにもいえるわけでね。過大に評価するのも失礼というか、過剰に怖れる必要もないだろうと思うし、かといってモノ扱いするのもおかしいだろうと思うし。そういう意味でいってるんだけどね。だからほんとに、俺はファインダーを通して関わるのが基本だからさ、そういう目で見ると、死体ってやっぱりいろんなことを語ってるわけだよ。だからかわいそう、とかっていう一般的な感情移入は、ほんとうに死体が表現してくることのほんの一部分で、むしろマイナーかもしれないと思う。というか、これは受け取る側の問題でもあるか。」
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