辺見庸さんの講演を聞きに京都へ行ってきました。
で、今朝のバスで帰ってきました。
ただいま~わーい
辺見庸さんは共同通信の記者でしたが、
途中で辞めて、その後は小説やルポルタージュを書いています。
代表作の『もの食う人々』が私にとって初めての本でした。
小学生の頃に父がこの本を読んでいたのを思い出し、なにげなくBOOK OFFで手に取りました。
大学2年生の夏でした。
読んでみて、驚きました。
ただ、世界中の食について書かれた本かと思っていたのですが、
食を通して見える「人間」を描いた作品でした。
なによりも、彼のその言葉遣い、文章のテンポ感、語彙の多さに驚愕しました。
どうやったとしても、自分にはこんな表現ができない、と一気に心をつかまれてしまいました。
その後、何冊か彼の本をよみました。
すごく腹立たしくなる時もあるし、イライラすることもあるのですが、ストンと心に落ちてくるような言葉の遣い方、考え方、生き方がとても魅力的でした。
昨年、明治大学でも講演会がありました。
何用かは忘れちゃったんだけど(その程度だったのかも・・・)、こんなに近くでやってたのにいけませんでした。
かなり(笑)尊敬している先輩が行ったというので、話を聞くと、「余命幾ばくかだよ、もう最後だったかも」っていう情報もあって、もう行きたくて行きたくて・・・なんで行かなかったんだろう(ノ_・。)みたいになってしまっていたので、今回この講演会を見つけると、すぐに予約を入れたのでした。
(ってかやっと前置き終わった。なが!!)
おりる駅を間違えちゃって、一緒に間違えたお兄さんに助けられながら(めっちゃいい人や~)たどり着くと、会場はすごい人!!!
なんじゃこれ~ってくらい並んでましたが、お兄さんのおかげで彼の友達のいる前の方までつれてってもらいました(ほんとにいい人すぎや~)
さて、ここからは尊敬する(笑)先輩をまねて彼の言葉をちょっとだけ載せてみます。
「あらゆるものが、記憶が、ことばが資本に飲まれている」
「日常に埋め込まれているたくさんの死」
「本当の日常に裂け目を見つける作業を私たちはしていない」
「メディアはは資本の潤滑油にしかなっていない」
「意識が何者かに収奪されている」
「メディアが守ろうとするのは日常」
「想像を前提としない文章はない」
「明文化されていない暗黙の了解、黙契」
「i would prefer not to~ やんわりとした、しかし確固とした拒否。拒否をする単独者」
「単独者にならないと人は想像することができない」
「日本の中で探すことができないのは例外」
キーワードになったのは「日常」「ことば」「記憶」「単独者」「想像力」「共同体」などだったと思います。
やっぱり、彼の言葉は一言一言に重みがあって、ストンストン落ちてくるみたいな感じでした。
そのたびに涙もろい私は涙を流してしまいました。
クラブという場所での今回の講演会は、彼にとっても「表現者である単独者が集まる場」としてとても力がこもっていたみたいでした。
京都まで行ってよかったです。
言葉を交えた人も何人かいて、またつながりもできたかなと思います。よかった
読んでいた森達也さんの本の内容がかぶってかぶって驚きました。(夏休みの森さんの授業超楽しみ~(〃⌒▽⌒〃))
でも、
辺見教には絶対になりたくないし、
彼の言葉の強さの裏に疑問を感じられるようにならにといけないとも思う。
でも、そのためには彼以上に経験して勉強もしないといけないんだろうなぁ・・・
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