2008年5月31日土曜日

やまない雨

昨日、高校のときのクラスメートが亡くなった。
詳しくはわからないけど、とにかく、突然の死だった。

昨夜、寝ていると突然電話がかかってきた。
半分ねたまま電話を取った。

知らせを聞いて電話を切った後も、
眠れないままベットの上で彼のことを考えていた。
五月の終わりに降る雨の音が、とても大きく聞こえた。

うそみたいだ。
あまりに突然で信じられない。

こわくなった。
私は人が死ぬことを知っているし、
今まで身近で誰かが死んだときは、そういって納得してきた。

でも、あまりに不意で、どうしようもなくこわい。

死ぬということは生きるということと同じくらい普通なことだ。
死があるからこそ生がある。

でも、やまない雨がないように、
私はいつの間にか、死の存在を忘れて生きている。

彼の死を今の瞬間で終わらせてはいけないような気がする。

彼の死を悲しく思うけれど、
彼の生きたその人生も悲しく思いたくないし、
私はきっと、
彼の分もって言ったらすごくおこがましいけれど、
毎日、ちゃんと生きられるように、って思った。

                                 (2006年9月北海道)


2008年5月30日金曜日

くたくたな本

                                      (2007年3月)

友達から本を貸してもらって、半分くらいまでばーって読んだ。
ごめん!!読みすぎて手汁でくたくただわ!
とかいって無理やり渡された。

思った。

「すごくうれしい」

何かをイロイロ考えて、思いをめぐらせながら読んだ大事な本を
私に渡してくれたということが、まずうれしい。
それは本という「もの」を貸してくれたってだけではなくて、
この本から派生する「思い」の共有までつながっている。

だから、彼女が大事な思いを共有したいと思ってくれたところまで、すごく嬉しい。

実は2年くらい、近くで一緒にサークル活動していたわけだけど、
こんな風にうれしいと思うことはなかった。

きっとそれは、
彼女が本当はどんな人なのか知らなかったから
ということではなくて、
彼女が私に話しかけてくれなかったから
ではなくて

私自身が、
他人を受け入れなかったからだ。

友達、親、恋人。
自分と一番近くにいる人に、自分のやっていることを伝えられている?

エイズ予防啓発活動をしていて、知らない人には、「こう考えよう!」とかいってるくせに、
私と近いところにいる人には、簡単に「私」を知らせられない。
一緒に活動している先輩にこういわれたときにはっとしたはずだったのに、

彼女の本を読んでいて、またはっとしてしまった。

多分、私が思っているより、社会は、人は、もっと優しくて、もっと私を受け入れてくれる。
すぐ私は
「なんでこうなんだろう」
「みんな何も考えてないのでは」
と嘆いてしまうけど、
私が思っているよりそんなことないし、
むしろ、逆に私が考えられていない。

ちょっと反省した。
けど、ちょっとうれしかった。

太陽は夜を見たことがない




太陽は夜を見たことがない



好きな記者の方が、講義でいいました。

ある、詩人の言葉だそうです。

(誰か忘れてしまった。。。重要なのに・・・)



太陽は夜を知らない。

もしかしたら夜があることさえ知らないかもしれない。


動物も植物も人間も、

多くが拍手喝采で太陽を迎えるけれど、

太陽は夜を知らない。



でも、社会には暗くて、悲しくて、辛くて、助けを必要そしている人たちがたくさんいる。





私は夜を掬い上げたいと思う。

でも、それは傲慢なように思う。

大体、私が夜を知っているとも思えない。


日本に生まれて、小中高と何の疑問もなく進み、大学へ行き、ひとり暮らしをさせてもらって、普通の大学生活を送っているような私が、

「暗闇に光を当てたい」

といったとしても、

そんな言葉は空を舞うように軽い気がする。


私は何をわかったつもりでいるのか。

結局私は、

太陽のように傲慢で、

太陽とは違い誰からも拍手をもらえない。



私はこの社会に何ができるだろう

2008年5月28日水曜日

doingよりbeing!!


尊敬しているおじさんが、以前こう言い出しました。

「僕の第二の人生はバリスタだと思う。」

あまりにもその方の今の職業がバリスタとかけ離れているようだったので、
私は耳を疑いました。

「え・・・・!!?バリスタですか!?」

ラテに絵をかく、その一回だけのアートに感じる潔さ。

すごい!!と思ったそうです。





このラテは私の大好きなカフェのラテ。
今日の「nonda?ラテ」は私の目の前にしかないたった一つのアートです。
バリスタが私に届けてくれた、たったひとつの贈り物。
その味を含めて、このアートは、ほとんどの場合、私とバリスタだけの共有物。
そう思うと、
この絵を壊してラテをのむのがもったいない!
と思う自分が「今」の瞬間を楽しめている、または愛おしいと感じていると思えてくるし、
バリスタの飲む人を考えてくれる気持ちにもうれしく感じる。
こうしなければならないと強要しないあたりが、とても落ち着ける。
[今]おこっている「コミュニケーション」を大事にすることが、
私の気持ちを納得させてくれるように思う。



doingよりbeing!!


何をするかよりもどんな風にいるか。

どんな気持ちでいるか。

自分のきもちに納得できるか。

このラテを前にした私が、自分そのまんまでラテを楽しむように、
ふぅっとひと息つくことで、バリスタの顔を考えられるように、
正解を追い求めるよりも
そのままでいることを認めることが、
自分で納得できる、相手のことも認められる、よりよい方法。

そうでいたいbeingでいるために、正直に、今のdoingに納得できますように。

2008年5月26日月曜日

森山大道写真展

写真美術館で開催中の森山大道写真展へ行きました。
彼の写真を始めてみたのは
大学1年生のときでした。
新宿のどこかの企業で行われていた展示会。
母に連れられていった私は少し疲れていて、最初はボーっとしていたのですが、
母の
「カメラの位置を考えてごらん」
という言葉に見方が変わりました。


誰かのための記録とか、
残しておくものとかではなくて、
写真はカメラと被写体との関係を表すもの、
という気がしました。
初めて写真に興味を持ったときでした。
「僕の写真は写真を職業とするほとんどのルートからはずれている。
「私」という個に向けてのみ撮っている。極私的な記念写真家。」
「僕にとって写真とは撮っても撮っても撮りきれず、追いきれない世界の断片と、
抜き差しならない自己の生との交差する一点、
真のリアリティを見つけるための唯一の手段としてあるのだといえる。」
今回の展示会で見つけた気にいった森山さんの言葉。
彼の時間
彼の見たもの
彼の感じたもの
彼自身の記録
日記みたいなものかしら。
森山さんの葛藤や悩みや、彼自身と接触している気になってきます。
彼が本当に自己に向かってのみ撮っているのだとすれば、
おそらく、説明しない、解説しない、分析しない、という倫理観が必要かもしれないですね。
森山さんそのものと向かうのだから。
人の日記にあれこれいうのは、いかがな感じかとも思うし、それと似ている気がします。
ただ、
本当に極私的なんていうことありえるのかなー。
ちょっとはうそついてないですか・・・?と、思ってしまいます。汗

2008年5月25日日曜日

チョコラ!

チョコラってスワヒリ語でストリートチルドレンのことをいうそうです。


5月24日
NGO、PLASの「Moving Africa -アフリカの真実-」へ行ってきました。
ケニアのストリートチルドレンを被写体にしたドキュメンタリー映画「チョコラ!」(小林監督)オリジナル版を上映と、
小林茂監督 、城咲仁、オスマン・サンコン、武村貴世子(MC) トークしょーでした。

アフリカといって思い浮かべるもの。
たいていの場合は、
サファリ、動物、ライオンキング・・・

その他にといわれたら、
エイズ、孤児、貧困、暴動、紛争、

っていう感じかなーと思います。

動物以外は
悲しく、辛い生活を強いられているというイメージ。
でも、実際はみんなすごく明るく、毎日生きていることに感謝しながらはつらつと生きているんだー。

このイベントのメッセージはこんな感じだったかなと思います。

たった2週間だけど、2年生のときに訪れたケニアを思い出しました。

キベラスラムへ行ったとき、
車から降りると子供たちが駆け寄ってきました。
「はわゆーはわゆー」

私のすぐ近くまで来ると、急に照れだして、顔を隠します。
お母さんの影や友達の影に隠れながら顔を半分だけ私に向ける子供たち。
わたしが声をかけるのをこらえて今にも吹き出しそう。
私の方がこのにらめっこに堪えきれなくなってさきに吹き出しちゃうのです。

サンコンさんがいいました。
「僕は分かち合いなさい、分け合いなさい、わかりあいなさい、感謝しなさいといわれて育ちました。」

アフリカにはいつもwelcvomeな雰囲気がある。

それを思い出しました。

だからまた行きたくなる。
アフリカが好きになる。


ただ、こうも思いました。
子供たちは私に向かって駆け寄ってくる。
けれど、この白い肌が珍しくて、見たこともないような不思議な人間だからであって、
私は全然彼らと分かり合えていないな・・・と。
彼らの苦しみとか、生き辛さとか、それも見えて初めてこの笑顔も理解できる
というきがして悔しく思いました。

さて、
今回の特別版「チョコラ」の映像で特別好きなシーンがあります。
ストリートの子供たちが
ペンキの缶を炊飯器にした後に、それをドラムにしてみんなで踊るシーンです。

あはは

思わず吹き出してしまいました。
わたしもあの踊りに混ぜてほしい。
またアフリカ行きたいな~

2008年5月24日土曜日

4分間のピアニスト

結構好き

っていうかかなり好き

こんな一番いいシーンを張っていいのか・・・
とか思うけど、私がもっかいみたいから張ります。
ラストシーンだよ~ この映画見る予定がない人はぜひ・・・

http://jp.youtube.com/watch?v=lU2G7vIA23c



キーワードは
・表現
・自由
・芸術
・暴力
・愛
かな・・・


私自身、自分を表現することが苦手なので、
「表現」にこだわりがあるためか、
なんというか、
この映画でのピアノシーンはすごく好き。
正直。

主人公がすごく暴力的であること、
自由を求めていること、
がうまく表裏一体。

同性愛者や、ナチス時代をひとりに二重に描いていることが、
特にこの映画の脚本のよさを感じさせます。

このあいだ、NHKの爆笑問題のニッポンの教養でゴリラの回の時に
ゴリラが鼻歌を歌う話から
音楽は言葉と違い「人を誘導しない」とありました。

アウトサイダーアートとして知られる
(アウトサイダーアートというそのカテゴリーはどうでもいいものだとは思いますけど)
坂上チユキさんの自己紹介に
「言葉は武器だ」、だから言葉では現せない世界をかくんだとありました。

人は共感を求めて言葉を遣い、後には説得、誘導、洗脳、戦争・・・
をしてしまう、そんなつもりがなくても・・・そういうことがある。

共感がほしいのは安心を求めるからだろうし、でも、だから言葉で簡単にことを片付けてしまって、
だれかと分かり合えないことが結構多い。
そして寂しい。

音楽はそんな言葉と気持ちの間に入ってくるものかもしれない。



なんだか、いっぱい言葉にしたい感じだったけど、
言葉に落とすと、いやー、なんだか思ったことが
反対につぶれてしまいそうで、うそっぽくなりそうで
よくない気がしてきた。
むーーーー

とりあえず、ここまで。笑
眠いし。
あーねれないかも。
泣いちゃうなー・・・

なんて抽象的なんだ・・・

2008年5月22日木曜日

新宿駅京王線連絡通路

新宿駅京王線連絡通路はなにげにいろんな情報で溢れています。
というか、私好みの情報でいっぱいです♡

例えば、(っていうかこれだけ・・?)
最近ずっと美術館展示情報ポスターが壁中にはってあるのです♡
ポスターのデザインがイロイロで楽しいのもあるし、
なによりもどれに行こうかなって考えるのも楽しい♡うふ

・森山大道
http://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv1-fftbtop&p

・バウハウス
http://www.bauhaus-dessau.jp/viewpoint.html

・アールブリュット
http://www.mew.co.jp/corp/museum/exhibition/08/

は絶対行こう♡わくわく

でも、9:00あたりにこの通路を通るときは
いつも異様な気持ちになります。

あまりにこんでいるものだから、
前の人と後ろの人との間隔はたったの30センチくらいしかない。
左側通行で、京王線へ向かう人と、JR線へ向かう人とが
束となって無表情にぞろぞろ行きかいます。

きつい香水のかおり。
おじさんの汗のにおい。

まるで映画『メトロポリス』の労働者みたいです。

このまえ茨城の駅で刃物を振り回し何人もの通行人が殺された事件があったけど、
もしも、私がこの時間この通路を使っていて、
後ろの人が刃物を振り回したら、私はきっと逃げられないと思います。

だれも、刃物なんて振り回さない
っていうある程度の信頼によって社会は成り立っているんだろうなー
とか思いながら歩いていたりします。



・・・にしても、早く美術展に行きたいなぁ・・・♡

2008年5月19日月曜日

将来について

「就活してる?」
   とか
「就活進んでる?」
   とか


最近よく聞かれるけど、答えることが難しくて、
「就職活動ってなに?」
「何を就職活動と呼ぶの?」
と聞き返してしまいます。


2年生のとき、とあるマス研の先輩に
「就活ってなにか」という話をしてもらいました。
ESをかくことなのか、
OB訪問することなのか、
会社の説明会に行くことなのか、、、

そうではなくて、
「僕は職に就くを大きな枠で考えて
将来を意識することだと思うんだよね。
もしかしたら1年生から就活する人だっているだろうし、
高校生から、小学生のときから自分の夢を追い続けたり、
将来を考えている人だっていると思うんだよね。
狭い範囲で考えるべきではないと思うよ。」

共感したし、私の就活はもうはじまっているじゃないか、と
どきりとしました。

今、就活といって想像されるのは、
どこかの企業へ入るためにするアクションばかりなきがしています。
でも、20代の私はまだまだ道を選べる立場にいる。
この前の日記で「内定した~い」とかかいておいて、矛盾しますが、
就活といって必ずしも一通りの道順しか描けないのはなんだか窮屈な気がしています。
(でもどうしても内定したいのですが、、、)
一つの選択としてなにかの組織への就職を選んだとして、
それで内定したら終わりって言うのもそうです。

OB訪問先の方に
「僕は入ったときからこの会社に3年もいない気がしていた。
10年も働いてるなんて、ちょっとビックリだし、多分予想以上にこの仕事が楽しいんだろうね。
でも、一生この会社にいる気はないよ。」
といわれました。
お給料だいぶいいだろうに、。。。笑
多分、彼にとって就活はずっとずっと続いてるんですね。


そんな夢見心地なこというなよ、って感じかも。
自分でもこれは現実からの逃避かもってちょっと思ったり。


でも、企業への就職はたった一つの道でしかなく、
世の中にはたくさんの選択肢があって、それに盲目的にはなりたくない。

組織に就職するのであれ、進学するのであれ、起業するのであれ、ユメを追うのであれ、
おばあちゃんになっても、ひいおばあちゃんになっても、
もしもお金がなくて困るようなことになっても、

ずっと、将来に望みを持っていられますようにと願っているのです。