2008年7月3日木曜日

アイあい

                (2007年8月金沢21世紀美術館)

先日、国立市にある15 APARTMENT 国立店の展示作品に興味を持ち、
今日はその絵をかいている生徒たちの絵画教室へ行ってきました。

障害者が主ですが、コンセプトとしては障害も国籍も性別も関係なく、

ボーダレスに活動しているNPOです。
(
NPO法人アイあい)

今日の生徒は10人くらい。
みんな○とか×とか△とかをたくさん練習していました。
先生が女の子をさして私に言いました。

「この子は7年間△がかけなかったのよ。
でもね、三角の核の部分をちょぼで三点つけて練習して練習してやっとかけるようになたの」


彼女は今もそのちょぼを書きながら曲がった三角を練習していました。

「今まではどうしても線と線をつなぐことができなかったのよ」

時々線と線が離れますが、そのこは三角を一生懸命つなげていました。
私は何気なく△をかきます。
すっごく簡単だと思います。
でも、彼女にはできない。
おそらく、△をとらえる、認識する基盤が私と違うのです。
△を見て私は三角だと思います。
でも、おそらく彼女には△が私のようには見えていないのです。


私は普段から、自分の目の前に見えるものは誰もに見えていると信じています。
太陽は暑いと、 水は青色に塗ると、 風は目に見えないと、 花はいいにおいがすると、
ナントナク信じています。
でも、それは仮説であるべきです。
「私」が絶対ではないのです。
彼女が三角を△ととらえないことを私は受け入れるべきではないか、と思います。
そのほうが優しいと感じます。

「私」を押し出すことは、他人を認めないことかもしれません。



今日、大学のある授業でバリ島の「ケチャ」が紹介されていました。
先生はこういうようなことをいいました。
「16ビートはシナプスからアドレナリンを出す効果があるという実験があります。

だからケチャを演奏するバリの人々にも、ポップスの16ビートも人を快くしている点で共通点が見られます」

本当にそうでしょうか。
ケチャを16ビートで感じることなんてできるのでしょうか。
それは西洋的な音楽観で無理に当てはめているだけではないでしょうか。
バリの人々はそもそもケチャを音楽と感じているのでしょうか。
芸術はシナプスで語れるような快楽なのでしょうか。
シナプスで語れるんなら、いつか芸術は本当に完璧なものとして完成してしまうかもしれません。



私は△を彼女にかかせることは、少し横暴なように感じてしまいました。
でも、ここは絵画教室。
教育の場なわけだから、暴力的な指導が必要なのかもしれません。

私がなんでも「好きなようにすればいいじゃん」ということは頓珍漢かもしれません。
同時に、この教室は彼らの人とのコミュニケーションの場にもなっているようで、
「絵」を描くこと以外の表現も、ここへ行く目的になっているようでした。

この絵画教室の先生兼NPOの代表の方はなんだかすごくパワーがあって、 私も一緒に講義を少し聞いてみたくなりました。
次は川崎のアイあいの美術館へ行ってみようと思います。

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