2008年11月24日月曜日

おばけならいうだろう


(2008年10月19日くらい 国立市)

「おばけならいうだろう」

けしゴムを つくったから
えんぴつを つくったんだ
と おばかさんが いった

えんぴつを つくったから
けしゴムを つくったんだ
と せんせいが いった

えんぴつを つくったのに
けしゴムを つくったのか
と かみさまなら いうのかな

けしむゴムを つくったのに
えんぴつを つくったのか
と おばけなら いうだろう

(まど・みちお)


灰谷健次郎さんの『天の瞳』で、
小学5年生のフランケンと言う少年が、国語の授業中にこの詩をクラスメートに紹介します。
みんなそれぞれにひとりひとりの解釈を発表していきます。

おばかさんはおばかなことをいってる、とか
先生は正しいことを言ってる、けど、当たり前すぎて面白くない、とか
かみさまはせっかくえんぴつで書いたものをけすとは、何にもならない事をするな、と怒っている、とか
いやいや、かみさまは人間の作ったものに感動している、とか
おばけは自分の権威をなくしたくないから消しゴムが大事なんだ、とか

この詩を作った人は、わざとおばかさんを最初に持ってきてわざと間違ったことを言わせて、みんなをおもしろがらせている、だとか
お化けの気持を読んだあとに、もっかい最初のおばかさんからよんでみたくなる、とか。


一人一人の解釈や考えがぐるぐる渦巻いて、それに触発されて他の子の考えも渦巻いる。
絶対の答えなんかそこには存在しない、でも、それぞれの考えが関係しあう、
そんな感じに思えて、とてもお気に入りのシーンです。

最近、小学生のときにとてもお世話になったT先生に手紙を出したら、返信が来ました。
T先生といえば、
「自分が悪いと思ったことはしてはいけません。でも、自分がいいと思ったことは進んでやりましょう。」
というその言葉を、私は今も心に残しています。

今でも忘れられない授業があります。
小学4年生のとき。
T先生の国語の授業で春に関する詩が取り上げられ、話し合われました。
どんな詩なのか、誰が書いたのか、全然覚えてないのですが、
その詩にでてくる「くも」が「雲」なのか「蜘蛛」なのか、
それを何時間にも渡って話し合いました。

「雲」なのか「蜘蛛」なのか。
どちらであるかによって、その詩から見える風景は大きく変わります。

こういう風にあるから「雲」だ、とか
こうあってほしいから「蜘蛛」だ、とか

大人にしてみれば、「そんなのどうだっていいじゃん」ってことだったかもしれない。
多分教育指導要綱にはそんな指導マニュアル、載ってなかったんじゃないかな?
でも、T先生はだれかの「このくもって蜘蛛じゃない?」っていう声を聞き漏らさなかった。
だから、そこからたくさんの想像力がみんなの中で膨らんでいった。

とっても楽しくて、その時の記憶は今でも心に残っています。

T先生から来た手紙にはわたしの小学生の頃の様子が書かれていて、
そこから今の私を想像した文章がつづられていて、
「先生、よく私のこと、みてくれてたんやなぁ・・・」って本当にうれしくなりました。

先生ってすごい職業やと思います。
生徒ひとりひとりと対峙しないといけないやろうし、場合によってはその子供の人生に大きな衝撃を与えたりする。
良くも悪くもね。
今は競争競争って、先生に子供をちゃんと見ている余裕がない時代とよく言われておりますけれども、
なんかそれってやっぱり悲しいなぁって、
「おばけならいうだろう」をよみながら、考えてしまいました。

日記


(2008年10月秋葉原)

たしか、そう。
こうやって空を仰いで、それから前を見た。
前には彼(または彼女)がいた。
そのときの空は私だけのものであってほしいと思った。
文脈とか、置かれてる状況とか、世間体とかその一瞬はないも同然だった。

とても好きな人と一緒に歩いた。
ときどきもうひとりの自分に「正直になれば?」と言われる。
でも、そうしたら、すごく自分が汚らわしいと感じる。

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とりあえず、抽象的にとめときます。
たとえ誰も読まないにしても、ブログに載せられるのはこれくらい。笑

夢と現実

                                 (2008年10月御茶ノ水)

今回は気になった本から引用をしてみます。
その「本」とは、マドンナの「SEX」(1992年同朋舎出版)という写真集です。

この写真集は一見とても暴力的なセックスシーンやSAFERでないセックスが載っています。
でも、冒頭にはこんな風にあるんです。

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この本のテーマはセックス。
セックスは愛ではないし、愛もセックスではない。
でも、どちらもひとつに解け合ったときが最高の状態。
私たちは神を愛することも、地球を愛することも、人類を愛することもできる。
相手が何であろうと、愛することができる。
でも、人間が愛を表現する最高の手段は、お互いが愛し合うこと。
そうやって、私たちは宇宙にまで愛を広げていく。

ひとりひとりが伝えていく。

愛とは私たちがつくり、そして、伝えていくもの。

この本は、危険なセックスを認めているわけではない。
ここにおさめられているのは、私の想像の世界。
とりとめのないことをぼんやりと考えたり、ぐったりと頭も体もリラックスしているとき、私はいちいちコンドームのことを考えたりしない。
人間なら誰だってそうだろう。
私の想像の世界は、私のつごうのいいようにできている。
だから、エイズの心配もない。
残念なことに、現実の世界はそうはいかない。
コンドームは必要だし、ひとりひとりに課せられた義務でもある。
あなたがこれから見たり、読んだりすることは、すべて想像の世界であり、夢であり、一種の「ごっこ」だ。
でも、もし、夢の世界を実際にためすことになったら、私は間違いなくコンドームを使う。
安全なセックスをすると言うことは命を守ること。
覚えていてほしい。

それから、この本に登場する人物や出来事が何かに似ていたり、実名や実際に起こった出来事が書かれていても、それはすべて、たまたまそうなってしまったということだ。
この本に、「本当のこと」は一つも書かれていない。
ぜんぶ私のつくりごとだ。
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この文章に魅かれてしまいました。
「コンドームをつけることが義務」と言うのは、私には賛成しかねるし、ふしぶしうーんってなってしまうところもあるのですが、
でも、 マドンナなりに「愛」をセックスから考えていて、 その態度がとても誠実な気がしたんです。

「私の作りごと」である世界と、自分とは違う他人がいるいわゆる「現実の世界」。
どちらにに対峙するかで、自分の態度を変えようとするあたりも素敵だなって思ったし、 じぶんの「夢」「作りごと」を「夢」として追求しようとすることもなんだか潔い気がしました。
なにより嘘っぽくなくて、快くその「夢」を聞いてみたくなりました。

現実の世界って、誰か自分とは違う他人がいるからこそ、他人に配慮すべきだと思います。
自分の夢を守ることも大切だけど、「現実の世界」を豊かにすることも私は大切であってほしいなって思います。
この手のいわゆるヌード写真集はそういった「夢」と「現実」についての区別を断ることが少ない気がするんですが、
マドンナは冒頭で彼女なりの「愛」を語ることによってどちらの大切さも語ろうとしている気がします。

なんだかクールなきがするのは私だけかしら??

2008年11月18日火曜日

毛ぼうし

↑私のお気に入り、雲の長さを測る男 (2008年8月金沢21世紀美術館)


突然もやもやとかきたくなってしまったので、久しぶりにブログをつづります。


でも、特に今すごくかきたいことはないから、
ただ、だらだら文字をつないでみたかっただけだから、
あと、いますっごい眠いから、
けど、ちょっとでいいからかきたいから、

「OH FUJIOさん」の「毛ぼうし」を下にアップします。

私もふじおさんに会ってみたいなぁ。
たぶん、私をたんなる私として受け入れてくれる気がする。
地位とか階級とか学生だとかあんまり関係なく。
海辺のカフカの中でネコさんと石さんと話をするナカタさんみたいに。


YouTube - 岩井俊二 / 毛ぼうし(ニットキャップマン) Moonriders


岩井俊二といえば、庵野監督のイワイシュンジ出演「式日」と言う映画はエヴァみたいだった。
庵野監督作品って感じだった。
でも表現が直接的すぎてわたし怖かった・・・。(あ、ラスト3行はまたもやたっぷり独り言だわ・・・)