2010年2月19日金曜日

写真2月19日

ここなっつの 
かー
わー

(2010年1月まんなか メコンデルタのどっか)


2010年2月18日木曜日

写真2月18日

                    ふねをこぐ    (2010年1月 メコン川)

2010年2月16日火曜日

写真2月16日

                    (2010年1月メコンデルタのどっか)

れんがーぐちゃぐちゃー

写真2月15日

           もくひょう
                  しゃしん いちにち・いちまい

でんせんがすごい

                  (2010年1月まんなかくらい ホーチミン)

2009年12月31日木曜日

マンゴーのいろ

(2009年9月の第二週くらいの土曜か日曜、富山の発電所美術館)
クリスマスに、仕事で仲良くなったお菓子屋のおじさんから
輪島で塗師をしている赤木明登さんという方の「美しいもの」っていう本をもらいました。
今さっき読んでいて、けっこういい本で、いろんな思い出とか記憶とか、思い出してしまいました。
そこで思い出したことの一つが今年の春、インドネシアのギリ・アイル島っていう小さい島で出会った島の男の子との話でした。

たぶん年は同じくらいの子で、夜、亀が海で産卵するっていうので一緒に見に行きました。
で、海岸線を歩きながらいろいろ話しをしていました。
たぶん、あれは満月だったんじゃないかなーー、と思う。
亀が産卵するような夜だし。 とりあえず、めちゃめちゃ星がきれいで、
月の光がとても明るくて、 波が光っていました。
海の中にはプランクトンがたくさんいて、手に取るときらきら光るのを見て笑いました。
で、まぁ結局亀にはあえなかったんだけど、 しかもこのロマンチック具合は全く関係ないんだけど、 笑
いろいろ話していて、
「なんでマンゴーって黄色いと思う?」 と私は聞きました。
唐突だけど、この質問は大学時代の英語の時間で私が気に入っていたディスカッション内容だったので、ふと聞きたくなりました。
かれはこう答えました。
「えっ!??マンゴーって赤色でしょ?」
すごくいい答えじゃないかなって思いました。


一つは 私が感じている赤とか青とか白とかっていう色は 国や文化や歴史や、いろんな環境の中でその定義が異なってくるっていうことを表しているって思うから。
私が黄と呼んでいる色は他の国の人には、または他人にとってはにとっては赤であり、また、しろでもある。

そしてもう一つは 私が見ている色は必ずしも絶対に黄ではなく、 同じ色を見ていたとしてもだれかにとっては、私の目を通したときに赤になっているのかもしれないっていうことを思い出したから。
例えば私の父親は色弱でオレンジっぽい色が私のようには見えないそうだけど、 彼自身が感じるオレンジ色って言うのはやっぱりそれでもあるわけで、 そのとき私と彼が感じている「オレンジ」という色はおそらくきっと違ってくる。
同じように、 私が思っている、信じていることや言葉の定義も 必ずしも絶対的な物ではなく、環境の違いや見ている目線によってめちゃめちゃ大きく変化してくる。

これは赤だ 白だ 黒だ と決めつけるのではなく、 なにかを表現していたら、だれかの解釈にまかせてしまう。
答えを預けてしまう。

あかでもいいし
白でも
オレンジでもいい
っていうふうに。
それって優しいことだなと思う。
自分の考えを押しつけたり、 誰かの声を聞かないのではなく、 任せてしまうというのは 悪くないと思う。

この本「美しいもの」も美しいものを強制しなくて、強制しない人とかものとかがたくさん出てきて、 そのときの情景をふと思い出してしましました。

「いつもの道を歩いて
ちいさな花をみつけた
今朝
すべてがあまりに美しいので
この花を君にあげよう
理由もなく何かを美しいと思うこと
僕はそのことにただ感謝しているんだ」

2008年12月8日月曜日

[2008年6月八戸]

八歳の子が作った詩らしい (『天の瞳 少年編Ⅱ』灰谷健次郎 より)

「きんぎょばち」

きんぎょばちに 入っているきんぎょを
よこからみると大きくみえる
上からみるとちいさくみえた
どこから見たら
ほんとのきんぎょにみえるだろう



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右から見える金魚が本物だったら、上から見える小さい金魚は何者だろう?
上から見える小さな金魚が本物だったら、左から見えるきんぎょは何者だろう?

私が見ているものは「本物」といえるのかな?
ただひとつの姿しかないと言い切ってしまうことは、少し寂しい気がしますね。

でも、もうひとつ。

本当にきんぎょがそこにいるのか、ということも問題にしていいのかもしれませんが・・・。

2008年11月24日月曜日

おばけならいうだろう


(2008年10月19日くらい 国立市)

「おばけならいうだろう」

けしゴムを つくったから
えんぴつを つくったんだ
と おばかさんが いった

えんぴつを つくったから
けしゴムを つくったんだ
と せんせいが いった

えんぴつを つくったのに
けしゴムを つくったのか
と かみさまなら いうのかな

けしむゴムを つくったのに
えんぴつを つくったのか
と おばけなら いうだろう

(まど・みちお)


灰谷健次郎さんの『天の瞳』で、
小学5年生のフランケンと言う少年が、国語の授業中にこの詩をクラスメートに紹介します。
みんなそれぞれにひとりひとりの解釈を発表していきます。

おばかさんはおばかなことをいってる、とか
先生は正しいことを言ってる、けど、当たり前すぎて面白くない、とか
かみさまはせっかくえんぴつで書いたものをけすとは、何にもならない事をするな、と怒っている、とか
いやいや、かみさまは人間の作ったものに感動している、とか
おばけは自分の権威をなくしたくないから消しゴムが大事なんだ、とか

この詩を作った人は、わざとおばかさんを最初に持ってきてわざと間違ったことを言わせて、みんなをおもしろがらせている、だとか
お化けの気持を読んだあとに、もっかい最初のおばかさんからよんでみたくなる、とか。


一人一人の解釈や考えがぐるぐる渦巻いて、それに触発されて他の子の考えも渦巻いる。
絶対の答えなんかそこには存在しない、でも、それぞれの考えが関係しあう、
そんな感じに思えて、とてもお気に入りのシーンです。

最近、小学生のときにとてもお世話になったT先生に手紙を出したら、返信が来ました。
T先生といえば、
「自分が悪いと思ったことはしてはいけません。でも、自分がいいと思ったことは進んでやりましょう。」
というその言葉を、私は今も心に残しています。

今でも忘れられない授業があります。
小学4年生のとき。
T先生の国語の授業で春に関する詩が取り上げられ、話し合われました。
どんな詩なのか、誰が書いたのか、全然覚えてないのですが、
その詩にでてくる「くも」が「雲」なのか「蜘蛛」なのか、
それを何時間にも渡って話し合いました。

「雲」なのか「蜘蛛」なのか。
どちらであるかによって、その詩から見える風景は大きく変わります。

こういう風にあるから「雲」だ、とか
こうあってほしいから「蜘蛛」だ、とか

大人にしてみれば、「そんなのどうだっていいじゃん」ってことだったかもしれない。
多分教育指導要綱にはそんな指導マニュアル、載ってなかったんじゃないかな?
でも、T先生はだれかの「このくもって蜘蛛じゃない?」っていう声を聞き漏らさなかった。
だから、そこからたくさんの想像力がみんなの中で膨らんでいった。

とっても楽しくて、その時の記憶は今でも心に残っています。

T先生から来た手紙にはわたしの小学生の頃の様子が書かれていて、
そこから今の私を想像した文章がつづられていて、
「先生、よく私のこと、みてくれてたんやなぁ・・・」って本当にうれしくなりました。

先生ってすごい職業やと思います。
生徒ひとりひとりと対峙しないといけないやろうし、場合によってはその子供の人生に大きな衝撃を与えたりする。
良くも悪くもね。
今は競争競争って、先生に子供をちゃんと見ている余裕がない時代とよく言われておりますけれども、
なんかそれってやっぱり悲しいなぁって、
「おばけならいうだろう」をよみながら、考えてしまいました。