2008年7月22日火曜日

分かり合うこと

「分かり合うことが愛だと聞きました。



そうだとしたらみんな一人ぼっち。」



plastic treeの「理科室」より。
たぶんこんな感じの歌詞だった。

今までだったら絶対聞かないジャンルだけれど人に薦められて聞きました。

分かり合うことができることなんてありえるのでしょうか。
相手の思っていることや考えていることを理解できたと思えたとしても、
それはきっと自分の中だけ。
「分かり合った」としてしまうことで、相手の言葉を声を聞かなくなってしまってはいないでしょうか。
もしかしたら、相手が言いたいことは、
分かり合えたと私が思っている以上のところにあるかもしれないのに。

だから、みんながみんな分かり合えてしまったら、
もう、みんな独りぼっちになってしまう。
そんなものが愛だとしたら、愛ってすごく暴力的。

わかることができないから、
耳を傾け続けていたい、
というほうが優しい気がします。

2008年7月20日日曜日

さとうとしお物語1

                   (2006年12月イケブクロ)
さとうは考えた。
あるとき、本当は自分はしおではないか、と考えた。
白くて砂みたいにさらさらで、キッチンにおいてあって。

自分はさとうであるのだと錯覚しているだけではないかと思えてきた。

さとうは自分の味がわからない。
「さとうが甘い」と言われたところで、本当に甘いのか自分の口では確かめようがない。

今まで自分はさとうだと思ってきたし、他の人にもそういう風に言ってきた。
だから、実は自分がしおだとばれてしまうことが、
突如、とてつもなくこわくて仕方がなくなった。

たとえ、さとうであることが正しくとも、
まずは誰にもばれないようにさとうかしおか確かめてみる必要があるきがした。
確認しておくことは、誰かにばれてしまう前の準備として大切なことだった。
安易に人にばれてしまうことは、自分が確信してきたアイデンティティを失うことだ。
そんなことばかりを考えて、3日三晩眠れずに過ごした。

「私は何者か!!」

とうとうさとうは叫んだ。
するとその調子を見ていたしおがいった。

「何者でもないさ。
みんな何かである素振りをしているだけさ。」

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本当、今のわたしはさとうです。

2008年7月18日金曜日

他人って鏡みたい





可愛い女の子のお話は好きです。
正直な女の子のお話も好きです。
私は男の子になったみたいにドキドキします。

My Blue Berry Nights という映画を見ました。
いわゆる恋愛モノとか青春モノみたいな作品(映画も小説も漫画もアニメも)が苦手で
全く期待していなかったんですが、
結構、私好きみたいでした。
どきどきしました。


この作品の言葉から、確かこんな感じの一言。

「他人って鏡みたい。
みんな誰かを見ながら自分を見てる。」

すきです。不覚にも・・・。
こういう女の子。


http://jp.youtube.com/watch?v=qE7kHvBnXss
(よくみたらやっぱりフランス・香港映画だった。)

2008年7月14日月曜日

クライマーズ・ハイ

映画『クライマーズ・ハイ』を見ました。

(1985年8月12日 御巣鷹山に日光航空機墜落。その事件を追いかける新聞記者たちのお話。)(これは朝日新聞)
(これはNHKのドラマ映像かな・・・)


本を読んだこともないし、ドラマも見てなかったけど、
なかなか迫力満点でした。
俳優もみんな上手でした。

まず、○○通信のぴーこがあまりにも今と同じでまずビックリしました。笑
事件後の編集局も、きっとあんなふうに大騒ぎだったんだと思うし、
あと、過労で倒れる場面なんかも、
「新聞社」の再現が忠実でなかなか抜けてません。



とても好きな記者に
「どんなに短くても、小さな記事でも、この情報のためにある強い思い。
それが新聞を支えているからね。」
と言われたことを思い出しました。
彼の声は太く、低く、そして語っていました。
この言葉は私にとってとても重いものでした。
思い出すと、記者になりたい私としては、
たまらなくなりました。

文字一つ、情景一つとっても、その一文をかくための労力の大きさ。
情報に対する責任。
伝えたいって言う思い。

特に、佐山さんの書き直しの文章は本当にぐっとなる。


個人的に、心に残りました。
私が伝えられるものってなんだろう。
課題です。

2008年7月9日水曜日

表現


                  (2008年6月)

「爆笑問題のニッポンの教養」という番組が実は結構好きで、
毎週欠かさず見ています。

っていう唯一の番組です。
日本中の大学の先生や研究者にインタビューするって言う番組です。
けっこういい言葉が見つけられます。
ゴリラの研究の回とかすごく楽しかった!!

きょうは東京芸大の宮田先生。
生徒の絵をさして、

太田「先生だってわかんないでしょ~」

先生「ははは!芸術をわかろうとすること自体が問題外だよ~」

というシーンがすごくよかったです。
私的に。
ちょっと泣きそうでした。笑


まさしく明日の「表言論」のテストのためにまとめている内容です。

表現を論ずることに疑問を投げるってことは、
明日のテストはすごく先生にとって嫌な回答になるかもしれないな~
先生の人柄とかまじめさはとっても好きなんだけども。
ちょっとどうしよう。
単位ももらえなかったらどうしよう。


多分、 芸術のみならず、何かを、 わかろうとする、論じようとする、
「私自身」を押さえようとしている気もしています。

だから、明日のテストはそういう内容をかきたいんだと思います。

「表現」への葛藤。

2008年7月4日金曜日

「自分で生きるということです」

                     (2007年9月北海道)
今日、もやもやとした将来への気持ちをつぶやく私に、T先生が言いました。







「自分で生きるということです」

2008年7月3日木曜日

アイあい

                (2007年8月金沢21世紀美術館)

先日、国立市にある15 APARTMENT 国立店の展示作品に興味を持ち、
今日はその絵をかいている生徒たちの絵画教室へ行ってきました。

障害者が主ですが、コンセプトとしては障害も国籍も性別も関係なく、

ボーダレスに活動しているNPOです。
(
NPO法人アイあい)

今日の生徒は10人くらい。
みんな○とか×とか△とかをたくさん練習していました。
先生が女の子をさして私に言いました。

「この子は7年間△がかけなかったのよ。
でもね、三角の核の部分をちょぼで三点つけて練習して練習してやっとかけるようになたの」


彼女は今もそのちょぼを書きながら曲がった三角を練習していました。

「今まではどうしても線と線をつなぐことができなかったのよ」

時々線と線が離れますが、そのこは三角を一生懸命つなげていました。
私は何気なく△をかきます。
すっごく簡単だと思います。
でも、彼女にはできない。
おそらく、△をとらえる、認識する基盤が私と違うのです。
△を見て私は三角だと思います。
でも、おそらく彼女には△が私のようには見えていないのです。


私は普段から、自分の目の前に見えるものは誰もに見えていると信じています。
太陽は暑いと、 水は青色に塗ると、 風は目に見えないと、 花はいいにおいがすると、
ナントナク信じています。
でも、それは仮説であるべきです。
「私」が絶対ではないのです。
彼女が三角を△ととらえないことを私は受け入れるべきではないか、と思います。
そのほうが優しいと感じます。

「私」を押し出すことは、他人を認めないことかもしれません。



今日、大学のある授業でバリ島の「ケチャ」が紹介されていました。
先生はこういうようなことをいいました。
「16ビートはシナプスからアドレナリンを出す効果があるという実験があります。

だからケチャを演奏するバリの人々にも、ポップスの16ビートも人を快くしている点で共通点が見られます」

本当にそうでしょうか。
ケチャを16ビートで感じることなんてできるのでしょうか。
それは西洋的な音楽観で無理に当てはめているだけではないでしょうか。
バリの人々はそもそもケチャを音楽と感じているのでしょうか。
芸術はシナプスで語れるような快楽なのでしょうか。
シナプスで語れるんなら、いつか芸術は本当に完璧なものとして完成してしまうかもしれません。



私は△を彼女にかかせることは、少し横暴なように感じてしまいました。
でも、ここは絵画教室。
教育の場なわけだから、暴力的な指導が必要なのかもしれません。

私がなんでも「好きなようにすればいいじゃん」ということは頓珍漢かもしれません。
同時に、この教室は彼らの人とのコミュニケーションの場にもなっているようで、
「絵」を描くこと以外の表現も、ここへ行く目的になっているようでした。

この絵画教室の先生兼NPOの代表の方はなんだかすごくパワーがあって、 私も一緒に講義を少し聞いてみたくなりました。
次は川崎のアイあいの美術館へ行ってみようと思います。

2008年7月1日火曜日

人間くささ

                (2008年6月25日青森県奥入瀬)

エイズって、とっても人間くさい病気だと思います。
すごく人間くさい。
だから、 偏見もあるし、差別もあるし、正しい情報はなかなか人々に共有されていないし、
たくさんの問題を抱えています。

でも、人間くさいからこそ、 適切なケアが優しくできれば、
「私」っていうアイデンティティが確かめられたら、
新しい気持ちで病気を迎え入れることができるのかもしれない。

「自分」を発見させてくれるめがね。




昨日、T地区のエイズ協議会に出席しました。
そのなかで、エイズになってしまったことを誰にも明かすことができないまま、
孤独死してしまった人の話を聞きました。
ショックでした。
誰かに打ち明けることができたら、適切な処置ができただろうし、
そんな寂しい思いをして死ぬこともなかったのではないかと思います。

日本においてのHIV陽性者は、ほとんど性感染によるものです。
「性」とは、「心が生まれる」って書くように、すごくデリケートなもので、
人と人とのかかわりを示す記号になります。
それは関わりのみならず、自分がどんな人間かをも時に示すでしょう。
だから、性感染症であって治らないHIV感染とは、人間くさいといえる気がしています。



例えば、東南アジアで売春をして陽性者になってしまった男性にとって、
陽性であることのカミングアウトは、
家族の中での「父」とか「夫」という威厳の損失につながると考えられます。
それは、今まで隠してきた「私」の一部分を他人に打ち明けることとも言えるでしょう。
今まで他人に示してきた自分の生き方を屈がえすことにつながります。


最近読んだ「服従の心理」にかかれていたような「権威」に関わってくる問題といえるでしょう。
人はある規律を持った集団やコミュニティ内に入った場合、
「役割」を持ち、それを演じることに懸命になるそうです。
守らなくても死ぬことはないし、でも守っていないとやってられない。
人は「父親」とか「彼氏」とか「彼女」とかっていう役割から、
なかなか離れることができない性質を持っているようです。
このことは人が社会を作る生物であることを示しているようにも感じます。


さて、
この「父親」は、あるとき奥さんにカミングアウトしたそうです。
奥さんは何も言わずに彼を受け入れてくれたらしいです。
奥さんは、この男性が見せていないと思っていた部分を知っていたのかもしれないし、
また、彼が役割を離れて何であっても愛していたのかもしれない。



人と人との関係を示します。

だからこわいと感じるけど、優しく迎えることもできます。
性感染症であり、 HIVに一度感染したらもう治らないからこそ、
「自分」がどういう人間なのかを強く示すし、
人と人とのつながりも強調して指し示しています。
だから、冒頭のような孤独死がもう起こらないためにも、
ちゃんと向き合えるようなコミュニケーションの可能なケアが必要なんだ、って
昨日の会議で強く思いました。