2010年10月3日日曜日

職業は恋人

(2010年神島)
フォルツァ総曲輪でスティーヴン・ソダーバーグ監督の
「ガールフレンド・エクスペリエンス」と
「バブル」
を二本続けてみてきた。

どちらも結構好きだった。

時給18万円を稼ぐ高級娼婦「チェルシー」の話。自分の仕事を理解してくれる彼氏もいる。2008年のリーマンショックで不景気なNYが舞台。大統領選や経済の話が映画のスパイスみたいにきいている印象。チェルシーが「人格論」とかいうのを絶対的に信じているのもかわいい気がした。久しぶりにあんまり説明のないタッチの映画を見たと思う。こういう空気感の作品は結構好きで満足。

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娼婦の経験はないけれど、どういう気持ちがするものなのかというのは時々考える。
見る映画や読む本に結構出てくるからかもしれないけど。

一番に思い出したのは「ヨコハマメリー」だった。
真っ白のおしろいを塗ったお顔で横浜をうろうろしていたい娼婦。所謂パンパン。
立場はことなるチェルシーとメリーさんだけれど、
がちがちに化粧してきれいな洋服を着込んで素顔を見せないあたりや、向上心があって自分の生き方にまっすぐな感じが結構にている気がした。

セックスというのは結構個人的で、
自分の内側と深く関わってくるものの気がしている。
普段どんなにかっこつけていい女やいい男を装っている人でも、
服を脱いで、裸になって、抱き合うセックス中は
単に快楽を求めているためだったとしても、
深い愛を確かめ合うためだったとしても
自分の内側をさらけださないわけにはいかないように思う。
きれいに身ぐるみをはがされたとき、人はセックスに快楽を感じられるのではないかな。
もし、↑の話がだいたいあっていたと仮定したら、セックスを売る商売は、客に快楽を販売することで成立する。
娼婦は、相手の装いをはがしてあげるために頑張らないといけなくなってくる。
客には相性の合う人や合わない人っていろいろいるわけだから、セックス中に個人的になっては商売は成立しない。
そのために、娼婦は何重にも心に仮面をかぶらなければならないんだろうし、
それはかなりきついことで、我慢や苦痛の上に成り立っていることなんじゃないかな・・・。


ただし、いずれの作品もこの大変さだけで語りを終わらせないところがけっこう気に入っているところ。
二人とも仮面をはずすとどうなるのかっていうのが完全にはわからない。
↑の話の全否定みたいなことをいうけれど、もしかしたら全然仮面なんてかぶっていないのかもしれないし、娼婦であることを含めて、もうこのままでほんとうの彼女たちなのでは、とも感じさせる。
メリーさんは最後に化粧をとった顔が「ほんとうの彼女」を暗喩しているようで、私には仮面をかぶり直しているんじゃないかとも思える。
チェルシーも個人的に思いをよせた男に会って涙目になるシーンは、彼女のなかで微妙なかけひきがあって完全に素顔とも言えないきがしてしまう。

昨日読んだ村上春樹の「トニー滝谷」は、服を何枚も何枚も買い込んで、見事に洋服を着こなす女性を愛する男の話だったけど、
何枚も何枚も着こなして、身にまとっていくその生き方は、
すごくすがすがしくて、華やかな描かれ方をしていた印象だった。
人は着飾って化粧をして、かっこつけようとするけれど、
かっこつけたことそのものが人の「人格」や「そのひと」を表していることも有るのではないかと思うときが結構あったりする。

娼婦という職業は、自分本来の生き方と、自分への偽りの狭間でぐるぐるぐるぐるしながらやっとできるものなのかもしれないって思う。(※娼婦によってもちがうだろうけども)
完全に「どちらかである」といいきれることよりも、それは複雑で人間味があることのように感じる。


■映画を見て思い出した作品
「ちぐはぐな身体ーファッションって何」鷲田清一
「ラスト、コーション」
「ヨコハマメリー」
「トニー滝谷」村上春樹
「女と男のいる舗道」ゴダール
とかとか・・・
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■そのた

映画館では私ともう一人の女性客しかいなくて、
すきまくっている感じもすごくよかった。
結構贅沢な感じ。
彼女の存在は微少だけど私の映画の見方に影響を与えていて、ちょっとした緊張感があった。
というのも面白い体験だった。

2010年9月27日月曜日

私らしく感動















(8月に神島で)


最近感動していないって気がついた。
前はもう少し「感動した」ってことが多かったと思う。
空を見たら「今日は高いかも」とか「飛行機雲だ」とか何か感想があった。
何かいやなことを言われたら「なんでそういうことを言う状況にいるんだろう」とか、相手へのいらない心配までしていた。
じっくりとものを見たり、考えたりしなくなった。
掘り下げて深く考えるってことが前よりもできなくなった。

昨日大学時代の友人から電話があり、「手紙に切れがなくなった」と指摘されて確信。
別の友人は「毎日がルーティン化してるってことかもね」って。
そうかもしれない。
毎日たんたんと過ごしてる。
小さな失敗に小さなショックを覚えて、小さな成功にちょっとだけほっとする。
その繰り返し。
あんまり大きくはみ出さない。
気持ち的にも。
会社で働くとはそういうことなんだろうか。

家で「千と千尋の神隠し」を流していると、
千尋が自分の名前を忘れかけた。
ハクがこんなことを言った。
「湯ばーばは名前を奪って支配しちゃうんだ」
千尋は自分の名前を忘れないで仕事しようとする。

私は自分の名前でちゃんと仕事できているんだろうか。
署名記事は載るけれども、それってほんとうに私なんだろうか。

働きながらでも、千尋みたいに名前を忘れないでいることは可能なはず。
もっと私らしく感動したい。

2010年9月25日土曜日

こきりこ祭り



(おねーさんのあたまが・・・)


越中五箇山のこきりこ祭りへ行ってきた。
(しごとで)
踊り手の男性は、ささらという楽器をならして、綾い笠っていうのをかぶって
上梨の白山宮でゆったりとした舞を踊った。

しゃっ

しゃっ、しゃっ


富山市八尾のおわらでもかぶっていたこの半円形の笠。
体から頭が遊離してるみたいに見える。
富山の祭りででてくる舞の魅力は、この笠に有るんじゃないかと思う。

顔が見えそうで・・・・・見えない。
あ、見える・・・・?見えない。
ちょっと見えた・・・・?かな?
みたいな。
それがすごくセクシーなんじゃないかな。

しゃっ

しゃっしゃっ



2010年9月23日木曜日

孤独

(別にこの写真が孤独を表してるわけじゃないとおもうんだけどねー)


アラーキー「人がたくさんいるところにいると孤独を感じるじゃない。だからいくんだよ」



大学生のとき、新宿駅ですれ違う何百人もの恋人や家族を想像していた。
ものすごい数になるんだろうってことにいつも圧倒されてた。
今こうしてすれ違ってるけど、
今後の人生で、彼らと知り合いになる可能性はほぼゼロに等しいのだろうということもよく考えた。
一瞬肩がふれるだけの関係。
別にそれがいやだとかさみしいとかいいたいんじゃない。
どちらかというと、それってわたしにとって「不思議なこと」に部類する。
ぼんやり考えちゃう部類とも、いう?
そのとき感じていた不思議さは、
アラーキーの↑の言葉の延長にあるようにも思う。


2010年9月22日水曜日

したい

                        (かみしま)
きのう、
千里浜のドライブウェーにいって、
カラスが動物の死体をつついている光景を発見した。
波打ち際に転がる死体。
ねこかいたちか、もうわからない。
顔面は骨が浮き出ていて、
かろうじて体とくっついている皮は、すごくきれいにはがれている。
ソーセージをつつんでるビニルをはがすみたい。
カラスは2匹が3匹になって最後に四匹になった。
四匹は死体の肉をついばんだ。


死体。
死体は暴力的。
動物の死体を観ているだけなのに、ちょっとした罪悪感。
死体はそれだけでどこか人を傷つける力をもつのかも。
友達がぱしゃぱしゃと死体の写真を撮っていて、私はその光景をみながらハーゲンダッツを食べていた。
ハーゲンダッツはおいしかったけど、変な味がした。


そういえば3年くらい前に中国の現代美術展にいったことがある。
死体派っていうのがあった。
みているのが苦しかった。
「私は死にます」ってみんなで言い続けるのとか、
老人ホームにいるような各国のおじいちゃん人形がぐるぐるフロアをまわっているのとか・・・

「やりすぎ」と正直思った。
きもちわるい。
ただ、二度といきたくないとかそういうんじゃなくて、心地いい不快感を感じた、という感じ。
悪くないっていうのが、見終わったときの感想だった。

死体が持っている非日常性は人の心を傷つけるかもしれないけれど、
それぐらいの覚悟を持って立ち向かうことでやっと作品との、何かとのコミュニケーションになる。
なにも心に響かないことより、なにかしら傷つけられる方が私は好きなんだと思う。

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そのほか
↑より
*「死体が自分を写す鏡だっていうのは、それが明日の我が身だからなんだよ。まあ手触りを感じないままに変に情報過多になっちゃってると、そういう当たり前のことを忘れちゃって自分の暗い面ばかりが肥大化しちゃうんだろうね」

*「いや、死体はそれ以上でもなければ、それ以下でもない、っていう言い方をするけど、それは決してドライな言い方をしてるわけじゃなくて、逆に特殊な存在だっていうようにもいえるわけでね。過大に評価するのも失礼というか、過剰に怖れる必要もないだろうと思うし、かといってモノ扱いするのもおかしいだろうと思うし。そういう意味でいってるんだけどね。だからほんとに、俺はファインダーを通して関わるのが基本だからさ、そういう目で見ると、死体ってやっぱりいろんなことを語ってるわけだよ。だからかわいそう、とかっていう一般的な感情移入は、ほんとうに死体が表現してくることのほんの一部分で、むしろマイナーかもしれないと思う。というか、これは受け取る側の問題でもあるか。」

2010年9月5日日曜日

神島のはなし5

(2010年8月観的哨)

観的哨ってこんなところ。



2010年9月3日金曜日

神島のはなし4


(2010/08 )


神島のはなし、神島のはなし。。。