2008年11月24日月曜日

日記


(2008年10月秋葉原)

たしか、そう。
こうやって空を仰いで、それから前を見た。
前には彼(または彼女)がいた。
そのときの空は私だけのものであってほしいと思った。
文脈とか、置かれてる状況とか、世間体とかその一瞬はないも同然だった。

とても好きな人と一緒に歩いた。
ときどきもうひとりの自分に「正直になれば?」と言われる。
でも、そうしたら、すごく自分が汚らわしいと感じる。

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とりあえず、抽象的にとめときます。
たとえ誰も読まないにしても、ブログに載せられるのはこれくらい。笑

夢と現実

                                 (2008年10月御茶ノ水)

今回は気になった本から引用をしてみます。
その「本」とは、マドンナの「SEX」(1992年同朋舎出版)という写真集です。

この写真集は一見とても暴力的なセックスシーンやSAFERでないセックスが載っています。
でも、冒頭にはこんな風にあるんです。

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この本のテーマはセックス。
セックスは愛ではないし、愛もセックスではない。
でも、どちらもひとつに解け合ったときが最高の状態。
私たちは神を愛することも、地球を愛することも、人類を愛することもできる。
相手が何であろうと、愛することができる。
でも、人間が愛を表現する最高の手段は、お互いが愛し合うこと。
そうやって、私たちは宇宙にまで愛を広げていく。

ひとりひとりが伝えていく。

愛とは私たちがつくり、そして、伝えていくもの。

この本は、危険なセックスを認めているわけではない。
ここにおさめられているのは、私の想像の世界。
とりとめのないことをぼんやりと考えたり、ぐったりと頭も体もリラックスしているとき、私はいちいちコンドームのことを考えたりしない。
人間なら誰だってそうだろう。
私の想像の世界は、私のつごうのいいようにできている。
だから、エイズの心配もない。
残念なことに、現実の世界はそうはいかない。
コンドームは必要だし、ひとりひとりに課せられた義務でもある。
あなたがこれから見たり、読んだりすることは、すべて想像の世界であり、夢であり、一種の「ごっこ」だ。
でも、もし、夢の世界を実際にためすことになったら、私は間違いなくコンドームを使う。
安全なセックスをすると言うことは命を守ること。
覚えていてほしい。

それから、この本に登場する人物や出来事が何かに似ていたり、実名や実際に起こった出来事が書かれていても、それはすべて、たまたまそうなってしまったということだ。
この本に、「本当のこと」は一つも書かれていない。
ぜんぶ私のつくりごとだ。
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この文章に魅かれてしまいました。
「コンドームをつけることが義務」と言うのは、私には賛成しかねるし、ふしぶしうーんってなってしまうところもあるのですが、
でも、 マドンナなりに「愛」をセックスから考えていて、 その態度がとても誠実な気がしたんです。

「私の作りごと」である世界と、自分とは違う他人がいるいわゆる「現実の世界」。
どちらにに対峙するかで、自分の態度を変えようとするあたりも素敵だなって思ったし、 じぶんの「夢」「作りごと」を「夢」として追求しようとすることもなんだか潔い気がしました。
なにより嘘っぽくなくて、快くその「夢」を聞いてみたくなりました。

現実の世界って、誰か自分とは違う他人がいるからこそ、他人に配慮すべきだと思います。
自分の夢を守ることも大切だけど、「現実の世界」を豊かにすることも私は大切であってほしいなって思います。
この手のいわゆるヌード写真集はそういった「夢」と「現実」についての区別を断ることが少ない気がするんですが、
マドンナは冒頭で彼女なりの「愛」を語ることによってどちらの大切さも語ろうとしている気がします。

なんだかクールなきがするのは私だけかしら??

2008年11月18日火曜日

毛ぼうし

↑私のお気に入り、雲の長さを測る男 (2008年8月金沢21世紀美術館)


突然もやもやとかきたくなってしまったので、久しぶりにブログをつづります。


でも、特に今すごくかきたいことはないから、
ただ、だらだら文字をつないでみたかっただけだから、
あと、いますっごい眠いから、
けど、ちょっとでいいからかきたいから、

「OH FUJIOさん」の「毛ぼうし」を下にアップします。

私もふじおさんに会ってみたいなぁ。
たぶん、私をたんなる私として受け入れてくれる気がする。
地位とか階級とか学生だとかあんまり関係なく。
海辺のカフカの中でネコさんと石さんと話をするナカタさんみたいに。


YouTube - 岩井俊二 / 毛ぼうし(ニットキャップマン) Moonriders


岩井俊二といえば、庵野監督のイワイシュンジ出演「式日」と言う映画はエヴァみたいだった。
庵野監督作品って感じだった。
でも表現が直接的すぎてわたし怖かった・・・。(あ、ラスト3行はまたもやたっぷり独り言だわ・・・)

2008年8月5日火曜日

図書カード

                      (2007年6月長野県上田市無言館)
                      (なんだか空がスケッチみたい~)


大学の図書館では自動貸出機で本が借りられますが、

本の裏表紙には2005年くらいまでの
 貸し出し年月日の記録が記載されています。
きっとその年くらいまではいつ貸し出されたのか、
記録していたんだと思います。


誰が借りたまではわからないけど、
古い本なんかを見ると、
何人も何人も借りているとわかる記載に、
うっとりします。
その一冊の本の歴史を私もつないでいる気がします。

ときどき誰も借りられていないみたいだと、
私が一番最初に借りることが、
ナントナクうれしく思われます。
この本の歴史は私からはじまる、
みたいなきになってしまいます。


自動貸出機にはかなりお世話になっているし、
そっちの方が便利なのもわかってる私ですが、
図書カードが教えてくれる、
一冊の本の歴史の流れに私も加わってるっていう
証拠みたいなものがほしくなってしまう。
えーと・・・、本の、歴史の、知識の「所有欲」ではなくて
どちらかというと「つながり欲」かなー。

『耳をすませば』みたいだけど、
アナログな関係がときどき恋しいです。

2008年8月4日月曜日

さとうとしお物語2

                            (2007年8月波照間島)
さとうとみそがひそひそと話し出した。
さとう「ねぇ、みそ君。あいつをごらんよ。あそこの赤くてべとべとな奴さ。」
みそ「どいつだい?あ、あの卵焼きにのっかってるやつかな。」
さとう「そうそう。なんだか酸っぱいにおいがして、僕は耐えられないよ。近くによるのも憚れる。」
みそ「本当にまっかっかだね。ありゃぁ悪魔の血が流れてるんだな。きっと。」


ひそひそひそひそ。

ひそひそひそひそ。

ひそひそひそひそ。


赤くてべとべとした彼は、さとうとみその声を聞きながら、少し悲しい気持ちになった。
何を言っているかはよくわからなかったが、ぎらぎらとにらまれることが辛かった。
彼には彼の言葉があり、
彼には彼の料理に対する思いがあった。
それはさとうにもみそにも理解されないものだった。
声を上げたとしても、おそらくさとうとみそは聞き取れない。
彼は黙っていた。
ひっしで口元を押さえて声が漏れないようにした。


ひそひそひそひそ。

ひそひそひそひそ。

しお「さとうくん、みそくん。君たちは君たちが理解できないものを危険人物扱いするようだね。」
みそ「何言ってるんだ。だって、ありえないだろ。真っ赤でべとべとして。言葉も通じない。あいつが何者かなんてだれもわかりゃあしないよ。」
しお「自分が知っている調味料の世界観をみんなにおしつけるのは、ずるいんじゃないかな。彼らは彼らの幻想を持っているかを考えもしないで。」
さとう「じゃぁ、しお君はわかるって言うの?」
しお「うーん・・・わからないなー。」
さとう「なんだよ、それ。笑っちゃうよ。君もどうせ、わからないんだろ。」
しお「うーん・・・、でも彼の声が聞こえたらいいなって思ってる」

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参考: 『エピクロスの園』(アナトール・フランス)

2008年8月1日金曜日

味わい

              (2007年8月 沖縄 多分波照間島かな~)
昔から相田みつをさんは苦手でした。
結構私の友達でも「好き」っていう子はいるし、
テレビでも特集されてたりするし、
詩を毎日読んで元気付けられてるって言う人も知ってます。

別に、それがうそだとか、
批判したいとか
そういう話ではなくて、
そう、全然なくて、
ただ、なんだか、
人生の教訓みたいなものが
ちょっと無責任な気がして苦手だったんです。
なんだか疑わしかったんです。

月刊PLAY BOYの今月号「詩は世界を裸にする」特集(9月号)を購入しました。
谷川俊太郎さんのインタビューがのっているんですが、
彼はこういいます。

「詩は、メッセージではない。
人間の意識を開放するものです。
おいしい食べ物のように
味わってほしいんです。」

確かに、目の前のケーキに、ローストビーフに、ラーメンに
「おいしいでしょ」とか
「こういう風に食べなさいよ」とか
言われたくない。

この箇所がおいしいとか、
まずいとか、
もしくは全然関係ないこととか考えながらでも、
自分の味覚で味わいたい。

名言がどれだとか、
これで感動できるとか、
これで人生がわかるとか、
そんなものはやっぱり胡散臭い気がする。

私と詩と素朴に関係を持つだけで、それでいいじゃない、って思う。

ある明確なメッセージが発せられていたとして、
いったい誰がそれを正確に受け止めることができるだろう。
理解できるんだろう。

今日読んでいる本(アナトール・フランス)によると、
わからないから、不完全だから、
だから人生なんだって。

昨日みた「秒速5センチメートル」で、
種子島を旅立つロケットを見ながら、
貴樹が遠い遠い宇宙に、求めているものに、
ずっとずっとひとり孤独で立ち向かっていくロケットを思うシーンがあったけど、

完全さや心理を求めつつ、
見つけられないことがこの世界を包んでいる気がする。

2008年7月22日火曜日

分かり合うこと

「分かり合うことが愛だと聞きました。



そうだとしたらみんな一人ぼっち。」



plastic treeの「理科室」より。
たぶんこんな感じの歌詞だった。

今までだったら絶対聞かないジャンルだけれど人に薦められて聞きました。

分かり合うことができることなんてありえるのでしょうか。
相手の思っていることや考えていることを理解できたと思えたとしても、
それはきっと自分の中だけ。
「分かり合った」としてしまうことで、相手の言葉を声を聞かなくなってしまってはいないでしょうか。
もしかしたら、相手が言いたいことは、
分かり合えたと私が思っている以上のところにあるかもしれないのに。

だから、みんながみんな分かり合えてしまったら、
もう、みんな独りぼっちになってしまう。
そんなものが愛だとしたら、愛ってすごく暴力的。

わかることができないから、
耳を傾け続けていたい、
というほうが優しい気がします。